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2004.01.31

きっとまた会える

日本テレビで毎週土曜日21時からやっている一色伸幸脚本のドラマ『彼女が死んじゃった。』の第3話「きっとまた会える」を見る。

わたしには、一色伸幸という名前は、子ども向けの絵柄のスペース・オペラでヒューマニズムを描いた、アニメ『宇宙船サジタリウス』(ファンページ: 宇宙船サジタリウスのページ )の脚本家の一人として思い出される。 この他にも、山本直樹(ファンサイト: 山本直樹「非認知」サイト: 山本直樹.com)と組んだコミック作品などもある。 また、映画やドラマ脚本も多い(日本映画データベースより一色伸幸)。

なお、この『彼女が死んじゃった。』も、おかざき真里(本人サイト: CAFE MARI(注・一部ブラウザで表示できない))と組んだコミックスがビジネスジャンプで連載中である。

ところで、今回、このドラマを見たのは、この回で描かれているという自己開発セミナーに興味があったからだ。 しかし、このドラマで描かれていたのは、いわゆる自己啓発セミナーではなかった。 このドラマで描かれていたのは、漁師のおっちゃんが主宰者で、「スウェーデンで開発された科学的メソッド」に基づくとか自称する講座で、どちらかと言えば新宗教じみたものだ。 講座の内容は、「あなたの人生はこのような原因で不幸なので、こうすれば幸せになれる」といったもので、このレベルでだけ見れば自己啓発セミナーとも共通ではある。

しかも、このセミナーの主宰者のおっちゃんの言動は、「サジタリウスの戦士」だ、「第二ステージ」がどうのという感じで、ちょっといきなり聞いたらひいてしまうこと請け合い。 更に、開運印鑑まで販売しようとしたりする。

・・・でも、元X JapanのTOSHIが関わっていることで、一時、話題になったMASAYA主催のレムリアアイランドレコード(現・ホームオブハート)という自己啓発セミナーがある。 このセミナーの現状(なんと、1月17日には、大々的にアルバムや本を同時にたくさん発売したり、コンサートも行われたらしい)は、ココログもやっている紀藤正樹弁護士のサイトLINC新着情報の2003年9月26日のところから辿ることができる。 ワイドショーなどで話題になっていた1998年当時、セミナーにおけるMASAYAのトークの記録がマスコミなどで報じられた。

このドラマを見ながら、わたしはどうしてもその内容を思い出さずにはいられなかった。

もちろん、ほとんどの自己啓発セミナーは、これとは異なっているのだろう。 しかし、成田のミイラ事件を起こしたライフスペースのことも含めて、時折、わたしはそこにある潜在的な何かを思わずにはいられない気持ちになる。

ま、それはともかく、ドラマの方は個人的にはおもしろかった。 コミックスの方も買ってみようと思った。

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2004.01.30

新約聖書

新約聖書翻訳委員会訳、『新約聖書』、岩波書店、2004年を買う。 本書には、机上版という箱入りで装丁がややしっかりしたバージョンもある。 それぞれ値段は無印が4,700円、机上版が5,700円(それぞれ税抜き)。

これは、1995〜1996年に岩波書店から出た5巻組の『新約聖書』を一冊にまとめたものだ。 なお、こちらのバージョンで全巻購入すると14,000円になってしまうので、今回一冊にまとめたものはおおよそ1/3程度の価格になっている。

現在、教会では、カトリックとプロテスタントが共同で訳したという、記念的な聖書である新共同訳が使用されている割合が高いと思われる。 さまざまな訳者によって訳された新共同訳に関しては、旧約、新約それぞれ、一般人、研究者などから、いろいろな議論や意見が出ている(例: amazon.co.jpの場合。 樋口進著、「新共同訳聖書 列王記上12章ー16章の訳文の検討(1)」)。

この岩波版は、できるだけ最新の学問的な成果を取り入れつつ、それが読みくくなろうとも、原文になるべく忠実に訳そうとしたバージョンである。 下手をするとページの半分くらいが訳注になっている部分さえある。 この新約聖書、旧約全巻(残りあと一巻)と相互参照できる日がくることを希望したい。

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2004.01.29

巨人 出口王仁三郎の生涯

百瀬明治著、『巨人 出口王仁三郎の生涯』、勁文社「大文字」文庫、2001年を読む。 なお、この本は、『出口王仁三郎の生涯 -- カリスマ性と合理性をあわせもつ男』、PHP研究所、1991年の文庫版である。

出口王仁三郎は、大本教では「聖師」と呼ばれ、開祖・出口なおとあわせて教祖と呼ばれている。 本書は、その出口王仁三郎の伝記である。

大本教は、明治25年に、出口なおが神がかって、「お筆先」と呼ばれる自動書記をはじめたことに端を発する。 そして、もともとはそれを読み解く審神者(さにわ)として、出口なおと出会った出口王仁三郎が、体制を整えていき、大教団に成長する。 そして、この教団は、大正10年と昭和10年に、国家から徹底的な弾圧を受けるまでになる。

しかし、実のところ、わたしには大本教の魅力がさっぱりわからない。 当時、文化人や軍人も含む多くの人々を集めた大本教だが、その基本となる教えは、わたしの理解の範囲では、基本的に天皇中心とした国家だったり、万教同根だったり、「この世の立替が起こる」だったりする。 また、非常にわかりにくく、とにかくやたらと分量の多い予言書がある。 そして、大正日日新聞のスポンサーになったり、いろいろと出口王仁三郎が奔走してみたり、浅野和三郎のようなインテリで過激な論調を展開する人材を擁していたりした。 それにしても、それらは国家から二度も弾圧を受けるほど、人心を集めるくらい魅力的なことだったのだろうか。

この疑問は、本書『巨人 出口王仁三郎の生涯』を読んでも、解けないままだった。 本書に描かれている出口王仁三郎は、とにかく人目をひくでかいことに挑戦する(もちろん、成功もするが、失敗もたくさんする)大人物で、いいことも言うけれど、突飛な言動が目立つ。 とにかく、話題に事欠かないおもろい人物である。 しかし、修行者であり、術者であり、神秘家ではあるのだろうが、不思議と宗教性というか、教えというか、そういう側面は目立たない。

藤木稟のミステリー、《朱雀》シリーズにも出口王仁三郎は出てくる。 それで《朱雀》シリーズを特集したムック ROMAN ALBUM《異界 VOL.2》『朱雀&魔都東京』、徳間書店、2000年が出ているが、その中に藤木稟本人が「出口王仁三郎の裏神業」という大論文を書いている。 この入れ込んだ文書においても、魅力的に描かれているのは、出口王仁三郎の宗教性というよりはキャラクターである。

しかし、ジャパン・ミックス編、『歴史を変えた偽書 -- 大事件に影響を与えた裏文書たち』、ジャパン・ミックス、1996年という本がある。 この本には、ホラー作家で、国書刊行会勤務時代にクトゥルーの翻訳を送り出した朝松健に取材した「オカルト業界の懲りない駄々っ子たち」という記事が載っている。 これを読むと、未だに大本教に関してはいろいろと利害が対立し、複雑なことにもなっているらしい。

また、老舗自己啓発セミナー est の流れを汲むランドマーク・エデュケーションとの関係で、自己啓発セミナー相談掲示板よりこんな話も・・・。

たぶん、時代背景が実感がわかないせいもあるのだろうが、大本教と出口王仁三郎に関しては、まだまだわたしにはわからないことが多い世界だと、今回、改めて再認識した。


なお、本書で紹介されている非常に個性的な出口王仁三郎の焼き物は、大本教のサイトで見ることができる。

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2004.01.28

はちみつペアグラス

天原ふおん『はちみつペアグラス』、白泉社 花とゆめCOMICS、2004年を読む。

天原ふおんの作品の特徴は、カルチャー・ギャップがあるふたりの恋の物語。 とってもすごい力を持っていたり、特殊な境遇にある男の子、そしてちょっと世間知らずな女の子。 その女の子が、いろいろ悩んだり、失敗したり、けんかしたりしながら、ギャップを乗りこえて、男の子と愛をはぐくんでいく。

今までの多くの作品はファンタジーだった。 しかし、今回の『はちみつペアグラス』は、日・伊ハーフで大手貿易会社の社長子息で、タレントでもあるジュリオくんと、大学に入ってすぐに結婚した鞠子ちゃんが主人公。 また、今までの多くの作品では、結ばれるまでが描かれていたが、今作では結ばれてからが描かれている。

でも、作品の魅力は変わらない。 天原ふおんの作品を貫いているのは、その人を好きだという気持ち、そして相手を信じること。 読んでいてあたたかい気持ちになる。

わたしは、この作品を、病気で寝ながら読んだ。 そして、少しだけ元気をもらえた。

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2004.01.27

希望のマッキントッシュ

山川健一著、『希望のマッキントッシュ』、太田出版、2004年を読む。

これは、Macintoshでデジタルなドリームを語っている本だ。 ニューエイジな思想でカルチャーを語っているという本があるが、そのMac版だと言えばわかってもらえるだろうか。 著者自身もあとがきで書いているように、この本の中には大げさだったりする部分もある。 ついでに言えば、妄想が暴走している部分もあるし、間違っている部分もあるし、誤植もある。

そういえば、HotWired Japanの翻訳記事で、ウンベルト・エーコから、心理学者のデビッド・レバイン、ラッセル・ベルク、Macエヴァンジェリストのガイ・カワサキ、デジタル系サブカル・アジテーターのダグラス・ラシュコフ、更には統一協会脱会者で現在はカルト問題カウンセラーのスティーブン・ハッサンまでも取り上げた、「カルト・オブ・マッキントッシュ」という記事があった。 でも、こんな扱われ方をすることがあるMac信者が書いたものでも、ほとんどのMac関係の本は、この『希望のマッキントッシュ』よりは、ずっと現実的で、冷静で、正確だ。

しかし、・・・。

わたしは、Mac OS Xが十分実用的に動くようになってから、ほとんどの作業をMacでしている。 別に、これはMacを偏愛しているからではない。 実際、MS-DOSもUNIXも旧MacOSもWindowsもそれぞれけっこう使っていた。 わたしが使いたいコンピュータは、そのときそのときに、自分がしたいことを、できるだけ簡単にさせてくれるコンピュータなのだ。

わたしのコンピュータの使い方は、今日としてはかなり極端な部類に属すると思う。 かなりの割合をコマンド・ラインで使う。 そうかと思えば、グラフィック・ソフトをバリバリ使ったりもする。 そういう言わばあまりフツーではない使い方をするのに適したコンピュータを選んだ。 それはたまたま、現在では、Mac OS Xが使えるコンピュータだった。

そう言えば、最初に発売された頃に、はじめてMac OS X を使ったときには驚いた。 それは、とても意欲的・・・というよりは実験的なシロモノだった。 ふつうだったら、使わないような先端的なしくみがいろいろと使われていた。 「え、ホントにこの方向で開発続けるつもりなの? 現実と志のギャップは大丈夫?」 そう思った。 実際、いろいろと使う上で不都合もあった。 こんな一部のコンピュータおたく向けのマニアックなしくみ満載のOSを、誰に売るつもりなんだろうとも思ったこともあった。 しかし、次第に対応するアプリケーションが増え、十分実用的な速度で動くハードも用意され、もろもろ不都合が解消されてきた。 そうして使ってみると、不思議なことにコンピュータの未来らしきものが、・・・いやたぶん幻想だとは思うが、垣間見えたような気がする瞬間が出て来た・・・。 とことん現実的にコンピュータを使って来たつもりだったわたしとって、これは驚きだった。

そういえば、パーソナル・コンピュータの黎明期の研究を集めた本に、ACMプレス編、村井純監訳、浜田俊夫訳、『ワークステーション原典』、ASCII出版局、1990年というのがある。 この本では、驚くことに「人間の能力を拡張するものとしてのコンピュータ」などという、今だったら口に出すにはちょっとはずかしすぎるかもしれない思想の実現に向けて、堂々と研究されていたことがありありと記録されている。

本書、『希望のマッキントッシュ』は、ニューエイジ色が強くて、いくつか間違っている部分もあるけれど、そんなパーソナル・コンピュータ黎明期の熱さを継いでいる本なのかもしれないと、読んでみて思った。

でも、おそらくは一生懸命書かれたであろうデジタルなドリームの部分よりも、個人的によかったと思ったところは、実は最終章「マッキントッシュ物語」だった。 これは、著者のいろいろな人との思い出を、短篇小説調で書いた章だ。 Macを通じて、いろいろな人間ドラマが展開される。 それは、青春で、不思議で、人間の愚かさで、それでもまだ捨てたもんじゃない何かを感じさせてくれる、そんな話だった。 ふと、著者の書いた小説も読みたくなってきた。

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2004.01.26

姫百合たちの放課後

森奈津子著、『姫百合たちの放課後』、フィールドワイ、2004年を読む。 この本は、ひとことで言えばレズビアンSMポルノコメディ短篇集。

最近、「百合」というキーワードで、レズビアンもののコミック・アンソロジーや雑誌が一般に流通しはじめている。 やおいなら、受け攻めの組み合わせ、それからたとえばシチュエーションなど、様式がある程度パターン化しているけれど、これらの本を読んでみると、百合の場合は、まだまだ進化の過程で、これから楽しくなる可能性も秘めているかな、なんて思っている。

その中でも、森奈津子のものは、作者、作品ともにキャラクターがタチまくっていて、それだけでもはや一つのジャンルを形成している。

ああ、どんな方法で、想いのあなたと念願を遂げようか! そんな逞しく、暗い欲望の限りを尽くした妄想の内容を、ありありと他人から見られたら、それがヘテロだろうがホモだろうがバイだろうが、きっとものすごく笑える。 強引な誘惑や、事に及ぼうとした瞬間に、お互いの思惑やボルテージが違い過ぎて、完全に空振りして萎えまくってしまうほど、情けなくなることはないもの。 そして、普通の人が、そんな逞しすぎる妄想の実現に否応なく巻き込まれたら・・・、それはもう悲喜劇だ。 それが森奈津子の作品。

森奈津子の作品は、とにかくエッチで、はちゃめちゃで、おかしくて、楽しい。 でも、それより何より、攻めの子が受けの子を好きなんだという気持ちがちゃんと伝わってくる。 そんなところがわたしは好きだ。

形だけ百合の装いをした作品からは、全く伝わってこないんだけど、これはとっても大事なことかなと思う。

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2004.01.25

地球に落ちて来た男

ウォルター・テヴィス著、古沢嘉通(ご関連?)訳、『地球に落ちて来た男』、扶桑社、2003年を読む。 この小説は、同名の映画の原作小説である(わたしは映画の方は未見)。

ウォルター・テヴィスと言えば、わたしに思い出されるのは、伊藤典夫、黒丸尚訳、『ふるさと遠く』、ハヤカワ文庫SF、1986年。 この本でわたしははじめてテヴィスにふれた。 決して世紀の傑作とは言えない、しかしそれなのにこの短篇集は、わたしの心に不思議な余韻を確かに残した。 他の本にはない何かが、確かにこの本にはあったのだ。

そして、今、1963年に出版されて以来、はじめて翻訳されたこの本で、ふたたびテヴィスに出会った。

太古に地球と何らかの関係を持っていたこともある、惑星アンシアから最後の望みを背負って一人の男がやってくる。 地球を遥かに凌駕した文明を持っていたにも関わらず、今や、アンシアは種族間の激しい戦争の結果、生き物も資源も死に瀕していた。 トマス・J・ニュートン(トニー)と名乗ることになった男は、アンシアの民を地球に移住させるために、アンシアの科学を使って、地球で恒星間輸送船を開発するという、使命を託されていた。 彼は、地球人に擬態し、計画を遂行するために奮闘する。 しかし、いつしか、一人ぼっちの地上で何かが、何かが変わっていってしまう・・・。

SFとしては、非常に古い設定だ(1963年作だから当たり前と言えば当たり前だが)。 しかし、わたしはこの本を読みながら、胸がひしひしとするのを感じた。

トニーの孤独が伝わってくる。 地球でははかりしれない価値を持った知識、死に瀕した故郷で待っている妻や子や同胞。 これらは非常に重要なことだ、偉大な使命のはずだ。 でも、それが一体何だというのだろうか。 自分は一体何なんだ。 一人ぼっちの地上で、価値も意味も何にもわかっちゃいない連中に囲まれて、そんな気持ちにおそわれる。

わたしは、映画版を見るのが怖い。 果たして、こんな気持ちが表現できるものだろうか。

そうだ、今一度、『ふるさと遠くを』開こう。


ところで、SF作家のフィリップ・K・ディックは、神秘体験を経たり、映画「地球に落ちて来た男」にはまったりしながら、《ヴァリス》4部作(『アルベマス』、『ヴァリス』、『聖なる侵入』、『ティモシー・アーチャーの転生』、いずれも創元文庫SF)を書いた。 ヴァリスのモチーフは、狂った神性の支配する地球に、救世主がやってくるが、その救世主自身も、地上の「毒」に冒されて自分自身を失ってしまうというグノーシス的な世界観だ。 『地球に落ちて来た男』のトマス・J・ニュートンは、ある意味、この救世主に見立てることができる。 わたしには、『アルベマス』や『ヴァリス』が、どこかしら『地球に落ちて来た男』のオマージュのようなものになっているように感じられた。

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2004.01.24

a memory

今回は、前回の「今日における奇蹟・いやし・預言」を書いていて思い出した、かつて子どもだったものの話をしよう。

あるところに、神を信じ、この世で生きるための闘いに明け暮れながら、毎日祈りが神にとどくことを願っていた子どもがいた。 そんな子どもも、いつしか世俗にまみれ、いろいろなものを失なった。 しかし、それでも、時には迷いながら、失敗しながらも、何かを学んで、大きくなっていった。

そしてある日、家の中で、一度も開かれたことがなさそうに見える本が目についた。 その本は、ある教会の設立○○年記念に出版されたもので、教会のあゆみが記されていた。

今はもう亡くなってしまった信心深い家族のことや、自分の子ども時代のことを懐かしく思い、いつしか本を読み始めた。 本を読んでいくと、そこには、驚くべき内容が記されていた。 なんと、リバイバルが起こったというのである。

リバイバルと言われても、ほとんどの人はピンと来ないことだろう。 ここに、その教会ではじめてリバイバルが起こった明治21年(1888年)のある日に、信徒が記した記録がある。 それを、かつての子どもに代わって、わたしがおおまかに現代語訳して引用してみよう。

この夜の祈祷会は、たとえようもないほど大いなる神の恵みによって、祈りの言葉で会堂が震えるほどになり、兄弟たちはお互いに立ち上がって、恵みを受けて感話をした。 感話は同時に2つも3つも出るほどだった。 賛美歌を歌えば、その声で物音が聞こえないほどだった。 東京から来た兄弟も大いに恵みに満たされて、3回も立ち上がって、聖霊を感じたことを述べた。 わたしの兄弟たちにも同様のものがいた。 23時半にようやく会をお開きにしたが、笑い声はとまらなかった。 兄弟姉妹、みな各々の家や宿舎に勇んで帰っていった。 本当に昨年、聖霊の降臨が青山で起こって、それが各地に及び、そして1年たって、今回わたしたちの教会にもこのような降臨を賜ることができたことは、神様がわたしたちの国に恵みをそそいでくださっているということで感謝せずにはいられません。

つまり、明治20年にリバイバルが青山で起こった。 そして、翌年、その関係者がこの教会にやってきて集会に出た。 すると、この教会でも同様の出来事が起こったと言っているのだ。

そして、ここで語られているリバイバルという現象は、信徒が感極まってしゃべったり、聖霊を感じたり、大声で笑うのがとまらなくなったり、賛美歌を大声で歌い合ったりすることである。 冷静に考えてみれば、当日、さぞや近所や家族にとっては迷惑であったことだろう。 いや、もちろん、当人たちにとっては、これは大いに実感が得られた体験だっただろうとは思うが。

このような現象は、明治16年頃から、横浜や東京で起こっていたと記されている。 また、この教会で後年の明治24年に行われた会議では、「リバイバルを起こさせる最も良き方法は如何」などという議論まで行われている・・・。

かつての子どもは、読んで驚いた。 この記録から、約1世紀を経過したこの教会には、そのような信仰の姿は全く残っていなかったからである。 また、幼い頃からいくつかの教会に出入りしたこともあったが、そんな光景は全く見たこともなかった。

かつての子どもにとっても、もちろんこの記録内容は、あまりにもめちゃくちゃなことに思えはした。 思えはしたが、それでもこの記録を書いた人は、その時には真剣に「これこそ本物! 究極の現象! すばらしい伝道方法だ!」と思っていただろうということも強く伝わってきた。 この驚くほど熱い情熱は、歴史の中で、一体どのような変遷を経て、現在の教会の形におさまることになったのであろうか。 そして、それを記録としておよそ1世紀後に編纂した人は、一体どんな思いでこれを読んだのだろうか。

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2004.01.23

今日における奇蹟・いやし・預言

高木慶太、テモテ・シスク共著、『今日における奇蹟・いやし・預言』、いのちのことば社、1996年を読む。

聖書には、数々の奇跡が描かれている。 預言者の見た映像、危地からの脱出、癒し、災害、神の子の宿り、復活、・・・。 しかし、聖書に描かれた時代は遠い昔となり、いまや奇跡の数々も灰燼に帰して伝説なのか真実なのか、わたしたちには知るすべもない・・・。 そう考えるのが常識だと思っている人も多いかもしれない。

キリスト教徒は、日本では人口のたった0.25%程度しかいないが、日本におけるイメージは概ね知性や社会的地位の高さや篤志といったカテゴリーに分類される。 だから、一部のイエスの名を借りた新興宗教でもない限り、教会に行っても、奇跡じみた話が聞かれることはない。 たとえば黙示録などに描かれたことがマジで近いことだとかいうのは、本当に一部のカルト宗教だけだ。 そう思っている人も多いかもしれない。

ところが、1980年代ころから、謎の言葉で突然しゃべりだす現象である異言、癒しの業などの現象を伴ったキリスト教がアメリカで出現し、各国に広がり、急激に成長した。 これは、「第三の波」、「力の伝道」などと呼ばれている。 なお、以前取り上げた『キリスト教のことが面白いほどわかる本』の一番最後の方で好意的に取り上げられている派でもある。 アメリカにおいては、政治的に保守的、宗教的に原理主義的で、やや過激と言えるだろう。

本書、『今日における奇蹟・いやし・預言』は、そのような宗教ムーブメントの批判書である。 著者の一人、バプテスト派のテモテ・シスクは、このムーブメントのことを(非信者として)知るために、その代表的なフラー神学校で学んだという経歴を持つ。

本書のスタンスは、非常にプロテスタント的と言えるが、基本的には聖書が中心であるべきだというものだ。 要約すれば、奇跡にばかり夢中にならず聖書に帰りなさい、これらの奇跡は本当に神のはたらきかどうかわからない、聖書に書いてあることと矛盾しているところがあるという3点を中心としている。

今回、本書を読んで、ムーブメントを批判する側の論理、(批判のフィルターを通して見たものではあるが)ムーブメントの様子、ムーブメントに対する個人的な違和感など、いろいろと認識を深く新たにした。 この種の内容は、賛否ともに多くは語られないので、いずれにせよ貴重な読書体験だった。

なお、沖縄では、それまでの沖縄の文化と不思議に融合した形で、現在、カリスマ運動が盛んに展開されていることが、駒沢大学教授の池上良正氏の研究などから知られている。

ところで、これは「第三の波」とも呼ばれているように、当然、第一、第二もあった。 この種の奇跡によって信仰が盛り上がる現象は、歴史の中で何度か現れてきている。 人は、結局のところ何によってその宗教を信じるのか、新しい宗教団体の形成とは一体どんなものなのかということについて、いろいろと考えさせられる現象だと思う。


ところで、服部弘一郎さんの『新佃島・映画ジャーナル』「日記|LOTRは長蛇の列」を読んで、うんうんと思い、わたしも段落の先頭を1文字程度字下げするように設定してみました。

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2004.01.22

大病院の売店で売られていた本とは?

近くにある大きめの病院にちょっとでかけて来た。 大きめの病院というと、わたしの印象では、初回診てもらうためにまず紹介状の有無を問いただされる(最近、新聞を頻繁ににぎわしている某大学病院では、紹介状なしで行ったら看護婦にきつく叱られたことも・・・)、やたらに患者が並んでいて診てもらうまでに平気で1、2時間くらいかかったりするというものだった。 今回に至っては、その上、病院の周囲を車が取り巻き、病院の駐車場に入るためだけに、数十分を要する羽目に・・・。 これじゃあ、それだけで病状が悪化する可能性も。

それは、ともかく、病院の中でも、予想通りにもろもろ待ち時間が非常に長かったので、本を読んだり、売店に出かけたりした。 売店で見かけた中で、特に目を引いた本が、精神病院の患者の語る言葉という体裁で書かれた芥川龍之介の『河童』。 ちなみに、この病院にはメンタルヘルス系の科もあるのだが。いいのか?・・・。

それから、日木流奈著、『ひとが否定されないルール -- 妹ソマにのこしたい世界』、講談社、2002年(正確には、2003年に出たこの本の講談社+α文庫版)・・・。

これは、NHKで放送された「奇跡の詩人」で話題になった、日木流奈の著書である。 この番組では、欧米の疑似科学系のページでは前から有名だったFC(ファシリテイテッド・コミュニケーション)というコミュニケーション・テクニック(参考: Skeptic's DictionaryよりFacilitated Communication (FC)他)と、ドーマン法という治療法が取り上げられていた。 これらの効果には疑問がもたれており、またコスト面でも非常にばかにならない(参考: 滝本太郎、石井謙一郎編著、『異議あり!「奇跡の詩人」』、同時代社、2002年。「NHKスペシャル「奇跡の詩人」 〜日木流奈くんについて〜」NHKスペシャル『奇跡の詩人』映像サイトNHKスペシャル「奇跡の詩人」関連リンク集など。またポール・パーク著、「ブレイクスルー(原題: "The Breakthrough" 1995年作品)」、S-Fマガジン 2003年6月号、早川書房という短い小説もある)。

大病院の売店という、何よりも我が子のことを真剣に思う親の手の届きやすいところで、売られているのはどうなの。

ちなみに、わたしが日木流奈をはじめてメディアで見たのは、ごま書房が1999年前後に出していた秋山眞人の「SP精神世界」という、精神世界系の雑誌だった。 「奇跡の詩人」に関して、批判が集まったときにも、精神世界系の掲示板では、「日木流奈くんのことがわからない意識のレベルの低いかわいそうな連中が批判しており、大変に悲しいことだ」「いつかは日木流奈くんのことが理解される」的な書き込みが見られたこともここに記しておこう。 うーん、・・・。


話は変わるが、大原美術館で購入した、棟方志功の「御群鯉図」(1943年作)のポストカードを、額を模したフォトフレームに入れて、机の前に飾っている。

「御群鯉図」は、棟方志功が、おつきあいの深かった大原氏のためにふすまに描いた、鮮やかで繊細な美しい鯉たちの絵。 見ていると、気持ちが安らぐ。

とは言え、ポストカードをそのままフォトフレームに入れるといまいちなので、マットを入れようと探してみたら、Photo Gallery Internationlさんで「ブックマットの制作」を発見。 マットカッターが欲しくなる。

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2004.01.21

高島易断を創った男

持田鋼一郎著、『高島易断を創った男』、新潮新書、2003年を読む。 この本は、伊藤博文の暗殺を予言したという伝説で有名な、易聖と言われた高島呑象(高島嘉右衛門)の伝記だ。

実践的な易占いの方法を書いた本を読むと、高島呑象の伝説にお目にかかることがあるが、そこには半ば神格化された姿が描かれている。 この本では、どちらかというと易聖・高島呑象というよりは、幕末から明治を駆け抜けた大物実業家・高島嘉右衛門として描かれた側面がそれなりに大きく、それが大変興味深かった。 当時は、次々と西洋の知識や文化が流入し、世の中がめまぐるしく変化していた。 高島嘉右衛門は、その中で、いろいろな大きな試みに挑戦し、財を成したり、(なんと)失敗したりを繰り返す。

高島嘉右衛門が易に深く関わることになったのは、獄中で易経を読みふけったことがきっかけであることはよく知られている。 そもそも、投獄された理由というのは、当時は金と銀との交換レートが国内1対5、国外1対15と大きく異なっていたのだが、負債の返済のためとはいえ、これを利用してお金を作ったことなのである(当然、禁じられていた)。 このような、まさにその時代だからこそ起こりえた出来事というのが、高島嘉右衛門の人生とともに、この本の中では生き生きと語られている。 高島嘉右衛門が、政府の高官とも親交が深かったためでもあるのだろう、この本では、「文明開化という時代の日本」が、もう一人の主役とも言えるくらいだ。 出てくる人物が大きく重なる、安彦良和のコミック、『王道の狗』(1〜6巻、講談社、1998〜2000年)を一緒に読むと、より楽しめそうだ。

なお、高島嘉右衛門に弟子がいたかいなかったかについては諸説あるが、高島や高嶋の名を冠した易者や団体は複数存在するようだ(この間、TSUTAYAで、3種類くらい異なった団体が出している「高島」とタイトルについている暦を見つけた)。 名称の使用をめぐって行われた裁判もあったらしい(参考: 市民のための憲法セミナー&素晴らしき知的財産権の世界より「東京地裁H6 (ワ)11157 高島易断総本部営業表示不正競争差止等請求事件」、そしてその控訴の東京高裁判決の館より「東京高裁判決 平成12(ネ)1203 不正競争 民事訴訟事件」)。

また、段勲著、『宗教か詐欺か その見分け方 -- "神"一重の現場を歩く』、リム出版、2001年に描かれたような事例もあることに留意したい。

なんにせよ、よくない予言を告げられて、お祓いしてあげるから(あるいは講座に参加せよとか)、○○円出しなさいと言われたら、黄金パターンなので注意しておけということで。

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2004.01.20

サーチとクレームとSPAM

過去にはいろいろと覇を競っていたサーチ・エンジンも、現在では、Googleが事実上のスタンダードになった。 これも、検索可能なページのデータが多いこと、マッチした付近のパラグラフが表示されること、キャッシュの閲覧が可能なことといった、他のサーチ・エンジンに対する確固たる優位性の結果だったのだろう。 「「ネットの未来」探検ガイド」の回で取り上げた明るい話の一方で、インターネットは巨大になりすぎて、有用なサーチ・エンジンのサービスを提供するには、サーバのハード、ソフト、メンテナンスと莫大なコストがかかるようになっているという現実がある。

ところで、ほとんどみんなが同じサービスを利用するようになれば、そのサービスの特性を分析して、こまやかにチューニングするような技術が、大きな意味を持ってくる。 実際、昨年はサーチ・エンジン(主にGoogle)で検索結果を上位に上げる手法、SEO(サーチ・エンジン最適化)が一部の業界ではホットな話題だった。 そして、SEOを請け負ったりする会社が現れたり、その方法を解説した書籍が出版されたりするようにもなった(さっき、Amazonで「SEO」をサーチしてみたら、6冊ほどマッチ)。

いやあ、ちょっと前までは、サーチ・エンジンで上位にランクされるようにと、HTMLのMETA要素にちまちまとキーワードを書き並べたり、NetscapeやIEを使ったときには不可視な情報をHTMLにたくさん書き込んだりしていた光景も、だんだんと変わってきたんだね・・・。

・・・そんなことを、スラッシュドット ジャパン「Google Japanがクレームのあった検索対象を結果から除外」を読んで考えていた。 この記事によると、悪徳商法などに関する老舗一大情報サイト「悪徳商法? マニアックス」の一部のページが、Google.co.jpで「悪徳商法」による検索結果に現れなくなったとのこと(参考: 「googleから、削除された理由(わけ)」)。

これが、インパクトを持っているのも、現在のサーチ・エンジンの一極集中の状況があるからだろう。 たとえば、「情報発信者」←→「情報利用者」というタイプのP2Pの検索サービス、あるいは検索にはネットにつながっているコンピュータを分散利用しつつ、ランク付けやフィルタリングのアルゴリズムは検索者自身でコントロールできるような検索サービスが実現できるとおもしろいかもしれない。

・・・いや、しかし、そうすると、今度は検索情報に大量のSPAMを流す連中が出てくるかもしれない。 そうだ、考えてみれば、そのうちウェブログのPingサーバの記事のタイトル欄だって、現在のメールの状況のように、SPAM業者の「Viagra」だ「increase」だ「young」だのいう広告で埋まってしまうかもしれないじゃない・・・。

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2004.01.19

「ネットの未来」探検ガイド

歌田明弘著、『「ネットの未来」探検ガイド -- 時間と言葉の壁を超える』、岩波アクティブ新書、2004年を読む。

本書で紹介されているのは、グーグルなどの検索エンジン、RSSなどのセマンティック・ウェブ関連技術Internet ArchiveなどのWebデータのアーカイブ、機械翻訳、P2Pソフト、分散コンピューティングなどの話題だ。

いまや、インターネットはWebによりデータ同士が連結され、巨大なデータベースとなった。 この巨大なデータベースの有効な活用方法の現在進行形が、本書の前半の課題になっている。 検索エンジンひとつをとっても、実にいろいろな可能性があるということが、本書によって改めて思い知らされた。 そして、本書の後半で語られる分散コンピューティングの話題も、定額ブロードバンド常時接続時代が到来してみると、大きなリアリティを持って迫ってくるものを感じた。

ところで、RSSと言えば、このサイト「でじたる異言ノォト」は、サイト管理のこまごまとしたところが自動で格段に簡略化されるのがうれしくて、Niftyココログというウェブログのサービスを利用している(参考: ARTIFACT - 人工事実 | Weblog/blog/ブログ ツールリスト)。 最近のこのようなウェブログのツールの一部は、RSS(RDFという形式で書かれた、サイト内容の要約)データを自動生成してくれる。 更に、サイトを更新した際にXML-RPCというものを使って、ココログPingサーバなどに、自動的に通知を行ってくれる。 このようなしくみを活用すると、ページの更新状況などを、自動的に、素早く伝播させることができる。

今はまだその程度だが、今後、もっとおもしろい使い方が見つかる可能性もあるはずだ。 なんといっても、Webのデータの量はめちゃくちゃ多くて、しかも、人間同士がインタラクティブに今この瞬間も作り合い続けているのだから。

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2004.01.18

神社若奥日記

岡田桃子著、『神社若奥日記 -- 鳥居をくぐれば別世界』、祥伝社黄金文庫、2004年を読む。

この本は、大阪の艮の方角にある、とある長い歴史を持った小さな神社に嫁いだライター岡田桃子さんによる、神社生活のノンフィクション。 この本の中のほのぼの系のイラストは、元イラストレーターで、現在、神社の禰宜をなさっている夫の岡田広幸さんが担当しているという、非常にアットホームなつくりの本だ。

この本を読んでみると、つくづく小さな神社とかお寺の仕事というのは、宗教性以上に、地域の人たちの交流の場の提供なのだと感じられる。 それだけに、神主や僧侶の家族の役割は非常に重要だ。 その仕事は、気配りであり、人付き合いであり、(通常の何倍、何十倍もの)家事なのだ。

大阪の人情が感じられて、神社に詳しくなれる楽しい本だった。 実際に、この神社に行った人のページをみていたら、自分でも行ってみたくなった。

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2004.01.17

人は、変われる。

自己啓発セミナー 相談掲示板の「あれま」という記事で見つけた話題。 一度コンテンツがなくなっていた、自己啓発セミナーのETLジャパンのWebページが復活している。 トップのページの最終更新日は2003年12月27日だ。

ETL(教育技術研究所)ジャパンは、日本最初の自己啓発セミナーのライフダイナミックス、後のアーク・インターナショナル(1999年に日本から撤退)の流れを汲む団体。 元アーク・インターナショナルの社長 菅原恭二氏と北川家により設立された団体である。 北川家といえば、ETLジャパン以外にも、北川慈敬のはじめたニューエイジ的な側面を持った宗教団体かむながらのみち(参考: 北川慈敬著、『内なる神を求めて -- 北川慈敬とかむながらのみち』、今日の話題社、2000年)、人気デュオ「ゆず」の北川悠仁と話題にことかかない。

アーク・インターナショナルと北川家の関係は、アーク・インターナショナルを取材した久保博司著、『人は、変われる。 -- 内側から見た自己開発セミナー』、プレジデント社、1993年にも書かれている。 久保博司氏は、警察の問題に切り込んだ著書が多く、最近は詐欺の問題も取り上げているが、『人は、変われる。』ではどちらかというと自己啓発セミナーに好意的だ。 現在、当時のことをどう思っているのか、非常に興味がある。

さて、『人は、変われる。』に出てくるのは、まず、北川敬子こと、かむながらのみちの教主・北川慈敬。 インタビュー当時、彼女は神道と真言宗醍醐派の影響を受けている解脱会の幹部だった。 彼女は、セミナーを受講したことで「人は宗教とセミナーの二つを持つべきです」「わたしは解脱会の中にいながら、解脱会にとらわれなくなりました」などと述べており、これは現在のETLとかむながらのみちの姿を暗示しているようだ。 彼女にセミナーをすすめた夫の北川和男氏は、当時、北川精密工業の社長だったが、主要社員にセミナーを受講させたと『人は、変われる。』には記録されている。

彼らの子どもが、現在 ETLジャパンの代表、そして真言宗醍醐派金剛山成就院住職でもあり、更にNLP(神経言語プログラミング)のプラクティショナーでもある北川大介氏と、ゆずの北川悠仁氏。

ETLジャパンのWebページでは、いわゆる自己啓発セミナーの三段階(Basic、Advance、三段階目)と卒業後のコースが紹介されている。 特に、三段階目のライフクリエイトコースでは、ベーシックへ何人勧誘するかという「エンロール目標」を設定することが明言されているばかりか、なんとその説明まで用意されている。 ここまで公式に主宰者側からWebページで明言されたことはたぶんなかったと思う。 しかし、この説明の内容は、これまで第三段階の参加者に対し、セミナー会社から行われていた説明と大差はない。 これまでにも、「実際に世の中で役に立つ実習をやった方がいい」「可能性を開くことを教えている自己啓発セミナーなのに、他の実習プログラムを開発する可能性を自分たち自身では探求していないのはおかしい」などの批判が受講生からあった。 エンロールの実習にここまでこだわるのはなぜなのだろうか。

なお、ETLジャパンの経営者のうち数人が、かむながらのみちの代表者であることも明言されている。

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2004.01.16

キリスト教のことが面白いほどわかる本

鹿嶋春平太著、『キリスト教のことが面白いほどわかる本』、中経出版、2003年を読む。 鹿嶋春平太は、明治学院大学経済学部経営学科教授でもあり、日本広告学会常任理事でもある肥田日出生氏のペンネーム。 本書では、羊の「シーちゃん」と著者との対話形式で、イエスの教え、キリスト教の歴史が、わかりやすく紹介されている。

わかりやすく紹介されてはいるのだが、そのわかりやすさの方向は非常に極端だ。

「魂のエネルギー波動」的な解釈による聖霊と、(言葉本来の意味における)カルト的な草の根教団を、本来的なすばらしいキリスト教として論じているのである。 著者が好意を寄せているのは、歴史の影で草の根的に「(著者が言うところの)本来のキリスト教」の伝統を伝えてきた人たちだ。 具体的には、それは現代で言えば、アメリカ南部のバプテストやペンテコステ派、カリスマ派などの「宗教原理主義」な人たちだという。 しかし、この人たちは、政治的には保守右翼な人たちで、『ブッシュの「聖戦」』の回でも取り上げたように、ブッシュ大統領の支持層でもある。

「本来は素晴らしいものだった○○の教えが、教団の世俗化とともに、体制と迎合することで、魅力と本来の姿を失ってしまった。 わたしは、本来の○○の教えに戻り、本来の○○教を取り戻したい。」

人はときに、そんなナイーヴな思いにとらわれることもあるのだろう。

しかし、そもそも「本来の○○の教え」だと、自分が勝手に思い込んでいるものは果たして、事実なのだろうか。 自分だけが真実を発見してしまったと思い込んでいる人は、たとえば「相対論は間違っている」という本の量を見てみれば、どれだけたくさんいるかわかるだろう。

いや、そもそも「本来の○○の教え」は本当に素晴らしいものなのだろうか。 一見、素晴らしく見えるけれど、実際にはほとんど役に立たなかったし、むしろ反社会的な行動につながった教えは、近年、世間を騒がせた団体の教祖の著書に散見される。

わたしたちは、本物とか、本来とかいう言葉にあこがれを感じる。 でも、本物とか、本来などというものが、そもそも存在しないものもあるのかもしれない。 本物だって、悪いものもあるだろう。 本物とか、本来とかいうことよりも、大事なこともあるんじゃないかという気がしている。

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2004.01.15

風邪で一回休み

風邪で無理をして一回休み。 しょぼしょぼ。

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2004.01.14

BR II/ブリッツ・ロワイアル (1)

富沢ひとし漫画、高見広春原案、『BR II/ブリッツ・ロワイアル』1巻、秋田書店、2003年を読む。 先月出ていたが、入手し忘れていたのを本日購入。

『エイリアン9』の富沢ひとしが、バトル・ロワイアルの続編に挑戦したのが本作。 全体主義国家、大東亜共和国の海軍がプランした、中学3年生の特別プログラムに強制的に参加させられることになった鹿之砦中学校3年2組を描いている。

『エイリアン9』もそうだったが、富沢ひとしの作品では、グズな女の子の主人公が、不条理で残酷な境遇につっこまれるのがポイントになっていて、これは本作でも健在。 キー・アイテムとして描かれている人間を壊すクスリ「闘湧錠」が、主人公・橋本真恋人(はしもとまこと)の周囲の世界を果たしてどう変容させるのか。

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2004.01.13

あんたがたどこさ♪

榊涼介、芝村庸吏著、『ガンパレード・マーチ -- あんたがたどこさ♪』、電撃ゲーム文庫、2003年を読む。

PlayStationのゲーム『高機動幻想ガンパレード・マーチ』は、不思議なゲームだった。 このゲームは、もしも第二次大戦末期に、幻獣という謎の非常に強力な敵が人類を襲ったら、というオルタナティブ・ワールドのSFシミュレーション・ゲームだ。 プレイヤーは、改変された現在を、人型兵器を駆って幻獣と戦う5121小隊の一人となってゲームをプレイする。 このゲームでは、5121小隊のメンバーは簡単なAIがコントロールしており、そのAIはプレイヤーとも相互作用して学習するし、AI同士でも相互作用して学習する。 この学習というのは、広い意味で、たとえばAI同士で恋愛関係になったり、険悪になったり、技術や知識をシェアーしたりするような幅広いものを含む。 このため、プレイしながら、(あまりかしこくない)仲間のキャラクターのAIは何を考えているのかとかいうことを、ついつい想像してしまう。 これが、このゲームの不思議なところだった。 そして、行動の自由度が高く、ちょっと普通のゲームの枠をふみはずしたような選択肢や展開が存在しているところも魅力を添えていた。 また、表面的な物語の背後に、複雑な設定が透けて見えてくるという仕掛けもきいていた。

この本は、榊涼介によるガンパレード・マーチのノヴェライズであり、既にこのシリーズは5冊の既刊がある。 さて、今回のお話は、休戦間近の時期に、速水厚志と原素子が謎じみた失踪して、それが5121小隊のメンバーに及ぼした波紋を描いている。 個人的には、榊涼介によるノヴェライズは、5121小隊のメンバーのキャラクターを、魅力的に演出していると思う。 それぞれのキャラクターの隠し味をかもしだしていると思う。 続刊を期待したい。

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2004.01.12

ブッシュの「聖戦」

エリック・ローラン著、藤野邦夫、山田侑平訳、『ブッシュの「聖戦」 -- 宗教、ビジネス、闇のネットワーク』、中央公論新社、2003年を読む。

アメリカがイラクをなぜ攻撃する必要があったのかを、理解することは困難だ。 アメリカから出る声明は、自分たち正義の味方が悪をこらしめるための戦いであったといった、あまりに勧善懲悪な脚色により、素直に信じるには抵抗がありすぎる。 そして一方、イラク側の状況は混沌としている。

そんなアメリカのイラク攻撃を実行することになった、ジョージ・W・ブッシュとその仲間たちの徹底批判を行ったのが本書である。 この本では、原理主義的で過激なアメリカのキリスト教福音派、そして統一協会とのブッシュの深い関係、周辺を固めている極右保守な人脈、ユダヤ教--キリスト教--イスラム教の間の複雑な感情のもつれと思惑と経済を巡るイスラエル情勢、石油や軍需産業とのコネクションなど、これでもかというくらい裏の事情が挙げられている。

もしもこれらが本当に事実だとしたなら(仮定)、皮肉にもブッシュ自らがなぞらえたように「十字軍」の蛮行をふたたび繰り返してしまったことになるような気がする。

本書の全体的な信憑性はともかく、個人的には、ブッシュと過激だったり議論が多かったりする宗教団体との関係は、非常に興味深かった。 本書でよく出てくるのは、キリスト教の中でもボルテージの高いリバイバル派やペンテコステ派、それからアメリカ南部の保守右派だ。 過激な宗教と過激な右翼思想をからめたサンデー・プロジェクトとか徹子の部屋とも言うべき番組がアメリカでは放送されているが、これに出てくるテレビ伝道師の多くは、リバイバル派やペンテコステ派だという。 さて、創造論VS進化論が未だに大きな問題になるこの国の明日はどっちだろう。

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2004.01.11

ファンタジー・ブックガイド

石堂藍著、『ファンタジー・ブックガイド』、国書刊行会、2003年を買う。

この本は、一人の著者によるファンタジーのブックガイドで、400冊ちかくのファンタジー小説が紹介されている。 取り上げられている本の種類には、SFや児童書、日本のものも含まれ、最近のものまで載っている。

これらの本を、著者が独断で紹介。 それがおもしろいと感じられるかどうかが、この本の好き嫌いが別れるところかもしれない。 そういえば、最近改訂された荒俣宏の『新編別世界通信』は、幻想小説を独断のセレクトで紹介する本だったが、これに比べると『ファンタジー・ブックガイド』の方が紹介文は短く、紹介する本の数は多い。

ファンタジーを読むということは、わたしにとっては、演劇を見ているときにも似ているが、隣り合っていて、時たま交差するような気持ちになる向こう側の世界と触れ合うことだ。 また、読んだこともないような不思議な本と出会える機会にもなっている。 これからも、そんなファンタジーと出会える紹介書が出ることを期待したい。

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2004.01.10

ウロボロスなトランスパーソナル

トランスパーソナル心理学に関しては、「鋼鉄のシャッター」の回でも触れたが、今回、「渉雲堂別館」さんで、「トランスパーソナル心理学」という記事を見つけた。 元ネタは栗原裕一郎さんの「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」「新年といえばオカルトでしょ」という記事。

これらの記事では、紅白歌合戦の時間(正確には20:45-21:30)に放送大学で放送された「心理臨床の世界('03)」の第6回目、諸富祥彦(もろとみよしひこ)による「トランスパーソナル心理療法」という番組について紹介している。 この講義は、教養学部の「発達と教育」分野の授業の一つとのこと。 講義要項によれば、この講義ではトランスパーソナル心理療法の基本的な姿勢と代表的アプローチを紹介し、プロセス指向心理学(POP)の実践も行うそうだ。

「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」で話題にされているのは、「人生のすべての出来事には意味があり、それはわたしたちへのメッセージなのだ」という、ニューエイジな思想だ。

「意味」なんてものを決定しているのは、結局、その人自身なので、人生のすべての出来事に意味を認めることも当然可能だろう・・・ いや、たぶん、そういうことはこの際どうでもいいのかもしれない。 ここでポイントなのは、トランスパーソナル心理学というのは、「人生のすべての出来事に意味がある」みたいなことを考えたい人たちがやっている、あるいはそういう人たちがお客さんだということだろう。

トランスパーソナル心理学な人、たぶんケン・ウィルバーの話だったと記憶しているが、意識のいろいろなレベルがあり、それに応じた心理療法があるという。 実存レベルの上に、道を探求するようなレベルがあるといい、そこに対応しているのがトランスパーソナル心理療法だという話だったと思う(この話の評価はここではおこう)。

でも、「道を探求する」というのは、結局のところ「人生のすべての出来事に意味がある」と考え、その「意味」や「メッセージ」といったものを見つけたがることではないのか、という気もしてきてしまった。

そうしたものを欲せずにはいられない人の心の風景、それはわたしにはとても興味深く感じられる。 それはたぶん、「誰かの役に立つことで、自分のこころの隙間を埋め」たくて、カウンセラーやセラピストになろうとする気持ちとも無関係ではないのだろう。 「自分自身のことではなく、他人の夢の実現に寄与する」という営みの一種である、コーチングの流行とも関係があるような気もする。

ボランティア、コンサルタント、セラピスト、コーチ、自己啓発セミナー、・・・、etc. に関する主宰者自身の自己実現のパズルは、今後とも合わせ鏡のように、わたしの心に反響し続けることだろう。

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2004.01.09

お寺の事情

リチャード・アンダーソン著、岡崎真理訳、『お寺の事情 -- アメリカ人民俗学者が見たニッポンの寺』、毎日新聞社、2000年を読む(なぜかリンク先の出版元のページでは訳者名が「山口峰代」となっている)。

リチャード・W・アンダーソンは、元ボーイングで航空機の設計をしていたこともあるという、ちょっと変わった民俗学者。 単著の本としては、本書の他に、リチャード・W・アンダーソン著、土岐隆一郎、藤堂憶斗訳、『体験 -- ニッポン新宗教の体験談フォークロア』、現代書館、1994年がある。 『体験』は、日本の新宗教である善隣会(現・善隣教)、立正佼成会、崇教真光(宗教情報リサーチセンターの該当ページ)の各宗派における、法座での体験談の語り合いを調査し、そのプロセスと構造をまとめた非常に興味深い研究だ。

さて、本書の『お寺の事情』は、ある鎌倉仏教の開祖の入滅を記念して建てられた、都内にある桜のきれいな大きな寺院に、著者が滞在していたときの記録である。 当時、著者は、美術館の設立のためのスタッフとして滞在していた。 しかし、4年つとめた後、美術館設立を推進していたエラい人の任期切れとともに、美術館設立もポストも立ち消えになった。 その4年間に著者が見たものは、世俗と同じく乱れた僧侶の世界、本来の仏教とはかけはなれた数々の民俗風習、派閥間の権力闘争に最大限のプライオリティをおいている職場、日本におけるガイジンという立場、etc. だった。 大変に不愉快だったであろうこの一連の経験を経ても、著者が人々を見つめるまなざしは、非常に温かく、わたしは驚かされた。 また、たとえば小さな寺における、嫁の役割の重さについて書かれたところなど、非常に的確に観察してとらえていると思われた。

さて、ところで、この美術館の設立は、極端に言えばある一人のエラい人の趣味で実施されようとしており、それをこころよく思わない人たちがいた。 しかし、反対する人々は直接エラい人に意見するのでもなく、婉曲にサボタージュしたり、機会をとらえてはプロジェクトについて遠回しにあてこすりを述べてみたりする。 それで、結局のところ、行われているのは「何事もしない / 何事も起こらない」という時間かせぎによる妨害なのだ。

何事も有効なことが起こらないようにのみ最大限の力をそそぎ、時間をかせいでやれば、さまざまな要因で、どんなプロジェクトだって、櫛の歯がこぼれて落ちていくように崩壊していく。 できる人は、いつだっていそがしいし、そんな妨害だらけのくだらないことに関わっているのは時間の無駄だと思うことだろう。 熱い気持ちだって、長続きはしない。 これこそが、既存の権力構造の中で主流派を維持するための知恵なのだろう。 これは日本ではよく見られる光景なのだろうと思う。

解脱? 悟り?・・・。 宗教はもはや風景にしか見えないといった趣旨の言葉が、ふと思い出されてしまった。

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2004.01.08

魔法使いとリリス

ハヤカワ文庫FTの創刊25周年記念企画、プラチナ・ファンタジィの第一弾、シャロン・シン著、中野善夫訳、『魔法使いとリリス』、ハヤカワ文庫FT、2003年を読む。 原題は、"The Shape-Changer's Wife"となっていて、この物語で焦点があてられているのは、姿を変える(Shape-Change)魔法。

若き魔法使いオーブリイは、姿を変える魔法を習いたくて、第一人者のグライレンドンに弟子入りする。 歪んだ性格をしたグライレンドンの埃だらけの家には、妻のリリス、使用人のオリオン、メイド(?)のアラクネたちが住んでいたが、彼らの様子はどこかおかしい。 オーブリイは、変な女性リリスにいつしか恋をして・・・というお話。

この物語の秘密は、読み進めるうちにすぐに理解できるはず。 秘密を解き明かすのではなく、すぐには語られない秘密を前提として、プロセスを楽しむ物語なのだろう。

愛を知るというのは、本当は一体どんなことなのか。 そして、愛の訪れる、まさに奇跡的な瞬間・・・。

決して結ばれない相手を、強く恋してしまった苦い気持ちを知るならば、この物語からなにがしかを感じられることだろうと思う。

最初、魔法は何でもできるすばらしいものだと思っていた。
その力を自分のものにしたいと思っていた。
でも、本当に力を手に入れるということ、それは魔法の本当の意味、世の中の理を知るということ。
その味は、きっと苦いのだろう。
そして、若者は大人になる。

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2004.01.07

ソフトウェア工学とコンピュータ ゲーム

ルディ・ラッカー著、中本浩訳、『ソフトウェア工学とコンピュータ ゲーム』、ボーンデジタル、2004年(関連ページ)を購入。

ルディ・ラッカーと言えば、『ソフトウェア』をはじめとする《バッパー》4部作などで有名なSF作家。 また、彼はサン・ジョゼ州立大学のコンピュータ・サイエンスの先生でもある。 その作風は、サイバーパンクという文脈で紹介されることがある。 しかし、個人的には、どうしてもサイバーパンクなんていうジャンルに収まるような小説ではないと思う。 ちなみに、わたしの個人的なベスト3は、『ホワイトライト』、『空を飛んだ少年』、『ウェットウェア』。

そのルディ・ラッカーが、大学の授業用に学生向きに書いたテキストが、本書のベースになっている。 この本で解説されているのは、MicrosoftのVisual C++による2D、3Dのグラフィカルなゲームの設計とプログラミング。 それもUMLなどを用いたオブジェクト指向による、実践的な開発方法だ。 評価自体は、640ページもある(価格も税抜き7000円)本書を通読しないとなんとも言えないところ。

なお、"Rudy Rucker Portal"を見ると、最近、ラッカーは親子で楽しく活躍している様子がうかがえ、とてもほほえましい。

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2004.01.06

グリの街、灰羽の庭で

安倍吉俊著、『グリの街、灰羽の庭で -- 灰羽連盟画集』、角川書店、2003年を読む(?)。

壁に囲まれて外に出ることはできないグリの街。 この街に、灰羽(ハイバネ)は生まれおちる。 背中に灰色の羽をはやして、さまざまな年齢で、繭の中から。 そして、ひとときの時間を過ごすと、光となって壁を越えて、この地を去る。 「灰羽連盟」は、そんな世界の物語。

たぶん、灰羽たちは、転生したものたち。 前世での欠落を、補うべく、今一度チャンスを与えられたのかもしれない。

かつて、灰羽の物語という鏡に映った像を見ながら、わたしは現実の人の生に思索を巡らしていた。 そして今、この画集を見て、クウやラッカやレキたちのことを思い出している。 それは、ちょっと切なくて、胸が痛くて、暖かくもある、そんな時間だ。

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2004.01.05

インターネットの不思議、探検隊!

村井純著、山村浩二イラスト、『インターネットの不思議、探検隊!』、太郎次郎社エディタス、2003年(関連ページ: あっちゃんこ じぇーぴー)を読む。

太郎次郎社と言えば、遠山啓(数学者)の『ひと』という教育雑誌を出版するために設立された出版社である。 何かしら教育に夢を抱いたり、オルタナティブな立場からの提言的な本が印象的だ。 この『インターネットの不思議、探検隊!』は、日本におけるインターネットの立役者村井純により、太郎次郎社から出た本ということで、とても興味深い。

本の内容は、小学校入学前くらいの年の女の子「あっちゃんこ」が、ある日突然いきなり謎の原因で、インターネットが空気みたいに普及している国に迷い込んでしまい、その国を探検してから帰ってくるというもの。 本の中では、デジタル化、プロトコル、ネットワークの構造、分散して自律するシステム、ユビキタス、セキュリティなどの話題が、取り上げられている。

果たして、この本の説明がわかりやすいかどうかは、読んでみて疑問だったけれど、この本を出発点にして、よりよい説明方法を見つけて行くことはできる。 そして、それがこの本の底に流れている「一人一人が主役」というイデオロギーに沿ったやり方なのかもしれない。

この本でさわりが紹介されている、どこにでもコンピュータが組み込まれ(ユビキタス)、それぞれが大したことをするわけではないけれど、たくさん集まることで全体としてすごいことができるシステム(自律分散システム)のビジョンは、これまでの常識ではとてもとらえ切れない。 これからの発展の中で、これまで見たこともないような世界をわたしたちに見せてくれるだろう。

かつて図鑑や少年少女雑誌で見た未来の世界の予想図は、今や色あせ、失われてしまった部分もたくさんある。 科学技術は夢よりも、ネガティブなイメージでとらえられることが増えた。 しかし、想像力が及ばない領域で、ドラスティックな変化が起こっていて、それはそんなに悪い未来でもないような気がしてくる。

「年末の巡礼」で、コミケでいただいたクレヨン社のサンプルCD「夜間飛行」のことを書いた。 この記事に対して、「ひねくれものにっき」さんの、「ぐぐれるって便利だ...。」からトラックバックをいただいた。 こうして、わたしははじめてクレヨン社に興味を持っている人が、「ココログ」をやっていることに気づくことができて、うれしかった。

今は、これはWebページのレベルなどでしかできない。 しかし、いろいろなところにコンピュータが組み込まれる(ユビキタス)ようになれば、現実世界の物体がWWWのように使えることになる(実際に、この本にはRFIDタグがついている)。 現実の物体にトラックバックする・・・。 そんなことが可能になると、一体どんな社会になるか。 そして、それは「インターネットの不思議、探検隊!」の最後の探検で触れられているように、プライバシーやセキュリティの問題とも深く関係してくることは間違いないだろう。

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2004.01.04

メシアの処方箋

機本伸司著、『メシアの処方箋』、角川春樹事務所、2004年を読む。

前作『神様のパズル』は素粒子実験系SFだったが、今作はヒマラヤで発見された「箱船」、そして救世主(?)を巡るSF。 これは、きょうびの技術の蘊蓄を傾け、ライトノベルで扱うにはどこか懐かしすぎる感じのお話を、ライトノベルの作法で書いた小説なのかもしれない。

この作者の今の瞬間だからこそ紡げるのかもしれない、ちょっと気恥ずかしい物語を読めて、わたしはうれしかった。

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2004.01.03

あなたの人生の物語

テッド・チャン著、浅倉久志他訳、『あなたの人生の物語』、ハヤカワ文庫SF、2003年を読む。

これは、「もしも・・・だったら、・・・」という形式で書かれた、さまざまなSFの短篇集。 そのアイデアと十分に練られた展開は、世界をこれまでとは非常に異なった視点から見せてくれた。 個人的には、「地獄とは神の不在なり」と「顔の美醜について -- ドキュメンタリー」がお気に入り。

人は、相手を判断するときに、相手の外見に多くを依っているという調査をどこかで読んだ記憶がある。 ときに自分自身でも、コントロールをはずれて沸き上がってくる対人感情の強い波を感じることがある。 そのときに、このことに思い当たることもある。 「顔の美醜について」は、もしも人が相手の美醜に左右されなくなる方法が見つかったらという仮定を基に、それが社会運動と結びついた世界を描いていておもしろい。

旧約聖書の神は、定命の者には理解しがたい行動を取る場面がいくつもある。 その神を信じるということは、一体どういうことなのかを問うた「ヨブ記」は、旧約聖書の中でも異彩を放っているものの一つだと思う。 世界は、理不尽であり、悪は散見される。 たとえば、それは、われわれが狂った神性の支配する黒い牢獄のような世界に閉じ込められているからであると、グノーシス主義者のように考えるのも一つだろう。 しかし、そう考えずに、神を信じるのであれば、その神の創造したこの世の理不尽さは大きな問題となるだろう。 「ヨブ記」の取り扱っているこの問題を、天使が降臨し、天国と地獄が顕現するという、神の手が非常に見えやすくなった世界を舞台にして、問い直しているのが「地獄とは神の不在なり」である。 この物語の提示するビジョンはとても衝撃的だ。

なお、これら神学的な立場とは極めて対照的に、自己啓発セミナーなどの類では、自分が源であり、自分の身の周りに起こってくるあらゆることは、すべて自分の創造であるという。 その場合、人類が存在している限りおそらく尽きることのない、この世の理不尽さや悪の存在といった問題を、もしも本当にまじめに考えると一体どんな結論が導かれるだろうか?

岩波書店の旧約聖書の最後に残った「ヨブ記 箴言」の刊行を待ちながら。

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2004.01.02

鋼鉄のシャッター

パトリック・ライス著、畠瀬稔、東口千津子訳、『鋼鉄のシャッター -- 北アイルランド紛争とエンカウンター・グループ』、コスモス・ライブラリー、2003年を読む。

カール・ロジャーズと言えば、集まった人たちが、「今、ここ」でのことを語り合う、エンカウンター・グループで有名。 ロジャーズらは、1972年に北アイルランド紛争に取り組み、現地の人たち9名を集めてエンカウンター・グループを行い、それを撮影して「鋼鉄のシャッター」と名付けられた短い映画を作った。 これは、本来、とても個人的なことを扱うセラピーによって、社会を変えようとした試みとして特筆に値するのかもしれない。

このプロジェクトの中心的な役割を果たした元イエズス会神父のパトリック・ライスは、この試みを博士論文の一部としてまとめた。それを訳したのが、本書である。 博士論文とは言っても、実際にはドキュメンタリーであり、とても読みやすかった。

この本からは、当時の北アイルランドにおけるカトリックとプロテスタント、そして英国軍との間の、こじれまくって殺伐とした様子が強く伝わってくる。 既にそれぞれで多くの人間が傷ついており、「相手がやめるまでは、自分もやめない」と、その遺恨は消しがたい。 それで、このこじれを、エンカウンター・グループを行って、対話を通して相手に対する理解を深めて、解決に導こうというのだ。

果たして、この試みはうまくいったのか?

本書に記録された、3日間24時間のエンカウンターのセッション(注・逐語録ではなく、かなり少ない抜粋)の中では、参加者は最終的にそれぞれ互いの理解を深めて、あたかも充実した終わりをむかえたかに見えた。 ここまでで終わって、効果があったよなどと報告されていたら、非常に能天気な研究だったとわたしは思っただろう。 しかし、この後で、著者は、作成した映画の効果や、エンカウンターへの参加者の追跡調査を不十分かもしれないが行なって記載している。 それは、はっきり言って、わたしには「紛争解決」には効果があったとも、なかったとも、なんとも言えない結果だったように読めた。

この種の試みは、最近では、プロセス指向心理学(POP)のアーノルド・ミンデルによってワールド・ワークと呼称されて行なわれている。 たとえば、それはアーノルド・ミンデル著、 永沢哲監修、青木聡訳、『紛争の心理学 -- 融合の炎のワーク』、講談社現代新書、2001年という本にもまとめられている。 奇しくもこの本は、2001年9.11のテロの直後に出版された。 日本トランスパーソナル学会が、この時期に臨時開催した2001年10月16日のワールドワーク「テロリズムと戦争を超えるために」(同学会活動報告参加した人コメント: なぜか2001年10月1日と記されている)の際にも、この本は紹介されたようだ。

果たして、今、いや将来、この時のことを振り返ってみて、参加者は、一体、どのようにこの集まりを評価するのだろうか。

わたしは思わずにはいられない、「一体、セラピーとは?」と。

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2004.01.01

新年企画 易占

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年初めということで、占い企画! 今年一年を占ってみる。

なぜか手元に、熊崎健翁著、加藤大岳校訂、『易占の神秘』、紀元書房、昭和27年という入門書があったので、占いの種類は易占に決定!!

ちなみに、易は、伏義が八卦をつくり、周の文王こと姫昌が彖(たん)、その子の周公旦が爻辞(こうじ)をつくったという伝説があって、封神演義ファンにもおすすめ。

さて、占って出たのは、本卦が水山蹇(けん)、之卦が震為雷。 易のポイントは、状況の変化が占いに出ることで、最初の状態が本卦、後の状態が之卦になっている。

まず、概論として、それぞれの卦の説明を読んでみる。すると、最初の状態の「蹇」は、目の前に険難がひかえていて、止まっている状況。 これに対するアドバイスとしては、立派な人と交わり、徳を修めよというもの。 また、後の状態である「雷」については、大激動がやってくる。身を修めよというものだった。

次に、各論として、易経の中の爻辞を調べる。 今回は、4つも爻が変化しているので、之卦の変化しない爻辞を読んだ。 まずメインに読むことになる下の爻辞は「六二。震がやってきてあぶない、莫大な宝をすてて、丘にのぼり、災いを逃れれば、七日後には再び手に入る」(てきとーに意訳。以下も同様)。 サブである上の方は、「上六。震でふるえおののき、目もくらくら、征くと凶である。しかし、震が自分ではなく、隣で起こっているのを見ておそれ戒めれば、害はない。ただし、つきあいには口をはさまれる」。

つまり、大激動の中で危険なことが起こっても、本質的でないものにとらわれなければ、大丈夫ということらしい。 まあ、変化に対応できるような心構えを持って、新しい年を迎えることにしたい。

オンラインで易占をしてみたい人は、たとえば雨粟莊などで試せる。 PythonアプリのpyChingや、KDEアプリのichingというのもあるので、腕に自信のある方はどうぞ。

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