地球に落ちて来た男
ウォルター・テヴィス著、古沢嘉通(ご関連?)訳、『地球に落ちて来た男』、扶桑社、2003年を読む。 この小説は、同名の映画の原作小説である(わたしは映画の方は未見)。
ウォルター・テヴィスと言えば、わたしに思い出されるのは、伊藤典夫、黒丸尚訳、『ふるさと遠く』、ハヤカワ文庫SF、1986年。 この本でわたしははじめてテヴィスにふれた。 決して世紀の傑作とは言えない、しかしそれなのにこの短篇集は、わたしの心に不思議な余韻を確かに残した。 他の本にはない何かが、確かにこの本にはあったのだ。
そして、今、1963年に出版されて以来、はじめて翻訳されたこの本で、ふたたびテヴィスに出会った。
太古に地球と何らかの関係を持っていたこともある、惑星アンシアから最後の望みを背負って一人の男がやってくる。 地球を遥かに凌駕した文明を持っていたにも関わらず、今や、アンシアは種族間の激しい戦争の結果、生き物も資源も死に瀕していた。 トマス・J・ニュートン(トニー)と名乗ることになった男は、アンシアの民を地球に移住させるために、アンシアの科学を使って、地球で恒星間輸送船を開発するという、使命を託されていた。 彼は、地球人に擬態し、計画を遂行するために奮闘する。 しかし、いつしか、一人ぼっちの地上で何かが、何かが変わっていってしまう・・・。
SFとしては、非常に古い設定だ(1963年作だから当たり前と言えば当たり前だが)。 しかし、わたしはこの本を読みながら、胸がひしひしとするのを感じた。
トニーの孤独が伝わってくる。 地球でははかりしれない価値を持った知識、死に瀕した故郷で待っている妻や子や同胞。 これらは非常に重要なことだ、偉大な使命のはずだ。 でも、それが一体何だというのだろうか。 自分は一体何なんだ。 一人ぼっちの地上で、価値も意味も何にもわかっちゃいない連中に囲まれて、そんな気持ちにおそわれる。
わたしは、映画版を見るのが怖い。 果たして、こんな気持ちが表現できるものだろうか。
そうだ、今一度、『ふるさと遠くを』開こう。
ところで、SF作家のフィリップ・K・ディックは、神秘体験を経たり、映画「地球に落ちて来た男」にはまったりしながら、《ヴァリス》4部作(『アルベマス』、『ヴァリス』、『聖なる侵入』、『ティモシー・アーチャーの転生』、いずれも創元文庫SF)を書いた。 ヴァリスのモチーフは、狂った神性の支配する地球に、救世主がやってくるが、その救世主自身も、地上の「毒」に冒されて自分自身を失ってしまうというグノーシス的な世界観だ。 『地球に落ちて来た男』のトマス・J・ニュートンは、ある意味、この救世主に見立てることができる。 わたしには、『アルベマス』や『ヴァリス』が、どこかしら『地球に落ちて来た男』のオマージュのようなものになっているように感じられた。
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