希望のマッキントッシュ
山川健一著、『希望のマッキントッシュ』、太田出版、2004年を読む。
これは、Macintoshでデジタルなドリームを語っている本だ。 ニューエイジな思想でカルチャーを語っているという本があるが、そのMac版だと言えばわかってもらえるだろうか。 著者自身もあとがきで書いているように、この本の中には大げさだったりする部分もある。 ついでに言えば、妄想が暴走している部分もあるし、間違っている部分もあるし、誤植もある。
そういえば、HotWired Japanの翻訳記事で、ウンベルト・エーコから、心理学者のデビッド・レバイン、ラッセル・ベルク、Macエヴァンジェリストのガイ・カワサキ、デジタル系サブカル・アジテーターのダグラス・ラシュコフ、更には統一協会脱会者で現在はカルト問題カウンセラーのスティーブン・ハッサンまでも取り上げた、「カルト・オブ・マッキントッシュ」という記事があった。 でも、こんな扱われ方をすることがあるMac信者が書いたものでも、ほとんどのMac関係の本は、この『希望のマッキントッシュ』よりは、ずっと現実的で、冷静で、正確だ。
しかし、・・・。
わたしは、Mac OS Xが十分実用的に動くようになってから、ほとんどの作業をMacでしている。 別に、これはMacを偏愛しているからではない。 実際、MS-DOSもUNIXも旧MacOSもWindowsもそれぞれけっこう使っていた。 わたしが使いたいコンピュータは、そのときそのときに、自分がしたいことを、できるだけ簡単にさせてくれるコンピュータなのだ。
わたしのコンピュータの使い方は、今日としてはかなり極端な部類に属すると思う。 かなりの割合をコマンド・ラインで使う。 そうかと思えば、グラフィック・ソフトをバリバリ使ったりもする。 そういう言わばあまりフツーではない使い方をするのに適したコンピュータを選んだ。 それはたまたま、現在では、Mac OS Xが使えるコンピュータだった。
そう言えば、最初に発売された頃に、はじめてMac OS X を使ったときには驚いた。 それは、とても意欲的・・・というよりは実験的なシロモノだった。 ふつうだったら、使わないような先端的なしくみがいろいろと使われていた。 「え、ホントにこの方向で開発続けるつもりなの? 現実と志のギャップは大丈夫?」 そう思った。 実際、いろいろと使う上で不都合もあった。 こんな一部のコンピュータおたく向けのマニアックなしくみ満載のOSを、誰に売るつもりなんだろうとも思ったこともあった。 しかし、次第に対応するアプリケーションが増え、十分実用的な速度で動くハードも用意され、もろもろ不都合が解消されてきた。 そうして使ってみると、不思議なことにコンピュータの未来らしきものが、・・・いやたぶん幻想だとは思うが、垣間見えたような気がする瞬間が出て来た・・・。 とことん現実的にコンピュータを使って来たつもりだったわたしとって、これは驚きだった。
そういえば、パーソナル・コンピュータの黎明期の研究を集めた本に、ACMプレス編、村井純監訳、浜田俊夫訳、『ワークステーション原典』、ASCII出版局、1990年というのがある。 この本では、驚くことに「人間の能力を拡張するものとしてのコンピュータ」などという、今だったら口に出すにはちょっとはずかしすぎるかもしれない思想の実現に向けて、堂々と研究されていたことがありありと記録されている。
本書、『希望のマッキントッシュ』は、ニューエイジ色が強くて、いくつか間違っている部分もあるけれど、そんなパーソナル・コンピュータ黎明期の熱さを継いでいる本なのかもしれないと、読んでみて思った。
でも、おそらくは一生懸命書かれたであろうデジタルなドリームの部分よりも、個人的によかったと思ったところは、実は最終章「マッキントッシュ物語」だった。 これは、著者のいろいろな人との思い出を、短篇小説調で書いた章だ。 Macを通じて、いろいろな人間ドラマが展開される。 それは、青春で、不思議で、人間の愚かさで、それでもまだ捨てたもんじゃない何かを感じさせてくれる、そんな話だった。 ふと、著者の書いた小説も読みたくなってきた。
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