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2004.02.01

オウム真理教とそれ以降

池上良正他編、岩波講座 宗教 2『 宗教への視座』、岩波書店、2004年に所載の伊藤雅之、「オウム真理教とそれ以降」を読む。

伊藤雅之氏は、現在は愛知学院大学文学部国際文化学科助教授だが、20才前後には、バグワン・シュリ・ラジニーシ(和尚、あるいはOSHOとも呼ばれる)にひかれ、実際にグループに参加したり、当時ラジニーシが滞在していたオレゴンのコミューンにも出かけていたこともあるという変わった経歴を持つ。

単著の本には、伊藤雅之著、愛知学院大学文学会叢書 1『現代社会とスピリチュアリティ -- 現代人の宗教意識の社会学的探究』、渓水社、2003年があり、この中では精神世界とネットでの人の出会いに関する研究を紹介している。 この本では、特に、「人はどんなときに入信するのか」に関する仮説である Lofland and Stark Model を論じた章が非常にわかりやすかった。 また、実際に自分が身を寄せていた、和尚ラジニーシ・ムーブメントに関して、詳しく変遷や歴史、内容、参加者像などがまとめられている。 更に、和尚ラジニーシ・ムーブメントでは、1985年にスキャンダルやお家騒動が発生している。 この件についてメンバーにインタビューし、騒動後もやめなかったメンバーの一連の事件の捉え方には、これは「ラジニーシが自分たちに与えてくれた自己変容のためのレッスン」だったのだというものが見られたなど、非常に興味深い記録も収録されている。

さて、ところで「オウム真理教とそれ以降」は、櫻井義秀氏、島薗進氏、弓山達也氏、渡辺学氏の4名を中心とした、現在進行形の宗教を積極的に研究している代表的研究者たちに、宗教研究について取材してまとめた研究である。

オウム真理教の事件は、宗教研究にインパクトを与えたという。 この事件に関しては、島田裕巳氏、中沢新一氏、坂元新之輔氏(現在は何をしているのだろうか?)などの学者の名前が思い出される。 しかし、それ以外の研究者はこれをどう受け取ったのか、そして、宗教研究の現在はどうなっているのか、それを描いたのが、本論である。

近年まで、新宗教の研究では、それを「創造的な革新機能を持つ」ととらえてきたという島薗進氏や、「民衆はいわば伝統宗教とか体制的なものに代わる共同体を新宗教に見いだした」という渡辺学氏や、弓山達也氏の自己啓発セミナーに関する昔の自著に関して「批判するのはジャーナリストで、アカデミズムは批判以外のことをするという暗黙の分業が、どこかぼくらのなかにあったんじゃないか」などコメントが、非常に印象深い。 そこに宗教の抱える負の側面をつきつけたのが、最近世間を騒がせているいくつかの宗教団体の問題である。 教団は真実を語るとは限らないし、(特に学生が)安易にフィールドワークを行うと取り込まれる可能性がある。 櫻井義秀氏の「語りのコンテクスト」を十分に理解した上でインタビューのデータを取り扱うべしというコメントからは苦労がうかがえる。 更に、研究には、成果発表がつきものだが、その論文なりなんなりの成果発表も、櫻井義秀氏や渡辺学氏のように、宗教関係の裁判にさえ使われてしまうという現象がある。 これは、極端に言えば、宗教を研究するという行為自体が、研究対象である宗教の今後にも十分影響を与えうるということだ。 いずれにせよ、宗教研究に関する研究といった本論を読んで、その悩ましさがよくわかった。

今後、研究者が、脱会者の調査なども行い、もしも教団のバラ色の側面だけを取り上げないとすれば、教団側も、これまでのように研究者に利便(研究所運営資金、シンポジウム開催や研究費は極端としても、インタビューの受け入れや資料の貸し出しとか)をはからなくなるかもしれない。 批判的な研究発表には、いちいち裁判を起こすかもしれない。 研究データの入手は、理想的には、量が多く、さまざまなスペクトルを含んでいることが望ましいのだろうが、現実問題としてそれは不可能だ。 教団の御用学者は教団提供のたくさんのデータと資金と掲載誌によって論文を量産し、そうでない学者は一本の論文を書くのにも資金や年月や情報提供者、場合によってはレフリーの面でも大変な苦労をすることになるかもしれない。

どうやら、宗教学者の前にそびえるのは、国立大学の独立法人化や産官学連携や任期制度や18才人口の減少だけではないようだ。

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