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2004.02.06

「信仰」という名の虐待

パスカル・ズィヴィー、福沢満雄、志村真著、マインド・コントロール研究所編、21世紀ブックレット 17 『「信仰」という名の虐待 -- Spiritual Abuse』、いのちのことば社、2002年を読む。 キリスト教関係者によって書かれた、この本で描かれているのは、主に牧師が専制君主のようになってしまったキリスト教会などの問題である。

特に、パスカル・ズィヴィー「「信仰」という名の虐待 -- Spiritual Abuse」と福沢満雄「信仰生活の中で虐待され、傷ついた人々の訴え」では、この問題を取り上げている。 そのような教会では、最初、訪れた人々は大いに祝福され、もてなされる。 そして、そのような環境に心地よさを感じ、依存するようになる。 すると、やがて、聖書の言葉による脅しやプレッシャーが用いられたり、すべての罪の告白するように指導されて生活や思想を把握されて管理されたり、いつの間にか教会や牧師のためにいろいろなもの(労働、献金、伝道)を提供する羽目に陥る場合があるというのだ。

これらは、非常に微妙な問題なのだが、教会の魅力と表裏一体のものだろう。 つまり、わたしたちは、寂しい心を抱えている。 そして、支えてくれる人たちや、やさしくしてくれたり、プライドを満たしてくれる人たちと一緒にいると気持ちがよくなる。 世界は、誘惑や不善に満ちているように見える。 もしも、イエスをキリストと信じる人であれば(仮定)、その教えに指導され、悪を為さず、正しく生きたいと思うだろう。 冒した罪を打ち明け、受け入れてもらえれば、カタルシスを感じられるし、心の重荷をおろし、人のつながりの温かさを感じることができる。 もしも、その教会や牧師が真理であると確信を持てるなら(仮定)、それにみんなで貢献できれば、一体感を感じ、すばらしい人たちの一人として大いに自尊心が刺激されるだろう。

問題は、そうした魅力にひかれて関わった結果、自分が何を手に入れ、何を提供してしまっているのかということだ。 献金や労働の強制、全体主義的体制への恭順、家庭崩壊・・・。

しかし、この場合、厄介なことに、魅力と虐待は表裏一体になっている。 最初、すばらしく見えたもの、それを否定することは、自分の感性を否定することにもつながる(でも、残念ながら、人は簡単に誤るものだ)。 また、わたしたちは周囲の人々と同じように振る舞うと安心できる。 だから、一度、中に入ってしまうと、自分が何をしているのかは、非常に見えにくくなる。 一体、自分が何に魅力を感じるのか、何を求めているのか。 その団体に関わったことで、何を得たのか、何を提供することになっているのか。 長期的に見て自分は、そしてメンバーには一体どんな影響が表れているのか。 社会との関係は、うまくいっているのか。 困難ではあるが、そういうことを、一つ一つ検証することが大切かもしれない。 別に、これは教会に限らず、強く関わることになる人や団体については、十分考えてみる価値があるかもしれない。

また、志村真「「信徒を虐待し危害をもたらす宗教思想・信仰信条」を考える」では、一般的にカルト問題ではその団体の行動にのみフォーカスする(たとえどんなに珍妙な思想を信じようと、問題を起こさない限りは、その人たちの自由)が、問題行動を生み出している思想や信条についても考える必要があるのではないかというものだった。 この2つは、非常に微妙だが、必ずしも矛盾せずに両立する考え方かもしれない。 この問題は、わたしは個人的には、もう少しじっくり時間をかけて考えてみたいと思っている。

なお、この本の最初には、新約聖書の「コリント人への第一の手紙」13章が引用されている。 意味深なものを感じつつ、早速、先日購入した岩波書店の『新約聖書』で同12〜14章を読んだ。

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