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2004.03.31

ウィルスとプライバシーと対抗勢力

とあるブロードバンド接続のユーザの方が、最近流行のNetskyワームに感染したらしく、同じIPアドレスから、3時間くらいの間に100通近くのウィルス付きのメールが送られてきている。 今晩中に何通までいくのか気になるところ。

送られてくるメールのアドレスを見ているだけで、交友関係や興味のある対象が想像された。 今回の場合、アドレスを見てみて、おそらく、感染した人は、一番知られたくないような相手に、自分の交友関係を漏らしてしまったのだろうなあと想像され、なんとも複雑な気分になる。

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2004.03.30

そらのひかり

わかつきめぐみ著、『そらのひかり』、白泉社 ジェッツコミックス、2004年を読む。

これは、岡野玲子の『陰陽師』も連載されている白泉社の月刊メロディに、わかつきめぐみが不定期に描いた作品を集めた本。 『夏目家の妙な人々』などに出てくる、夏目家の人たちも出てくる短篇「Cotton Candy Cloudy」も収録されている。 収録作品は、これ以外には中篇「そらのひかり」と短篇「はるつぼみ桜色」の2つで、これらは春を感じさせてくれ、この季節にぴったりだった。

今回も、わかつきめぐみの作品という感じで、ファンタジックな雰囲気で、変だったり、いじをはっていたり、でもピュアな気持ちを持ち続けている人たちを描いていて、読んでいてほっとした。 次の本が出るのはいつになるのか。

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2004.03.29

聖譚曲

田口順子著、『聖譚曲(オラトリオ) 空想戯画0000』、中央公論新社 CNコミックス、2004年を読む。

田口順子は、RPGやファンタジー、SFなどの本の表紙、カード、パッケージなどの絵を多数手がけている人。 この『聖譚曲』は、彼女の画力のすごさを本当に見せつけてくれた。 全ページ、信じられないくらいの密度の絵でうまっている。

さて、ストーリーは、創造神ユノ・タウジェは、世界にオルド族とヒト族を創った。 オルド族は、巨人で優れていて、世界を統べていたが、創造神に叛逆を企てる。 ユノ・タウジェは、オルド族を滅ぼし、ヒト族の世界として、やり直すことにしたが・・・というもの。

ノアの箱船をモチーフにしたようなストーリーである。 なお、この巻は、世界設定を紹介するものらしく、基本的なストーリーしか語られていないが、興味深い伏線が多数用意されている兆しが見える。 来年の春に『真紅の偶像 空想戯画1460』が発売予定とのこと。 非常に待ち遠しい。

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2004.03.28

だれも猫には気づかない

アン・マキャフリー著、赤尾秀子訳、『だれも猫には気づかない』、創元推理文庫、2003年を読む。

前々回取り上げた『天より授かりしもの』がおもしろかったので、同著者の『だれも猫には気づかない』を早速入手した。 『天より授かりしもの』も『だれも猫には気づかない』も、短い作品なので、すぐに読める。 インストール大会中は、待ち時間が長い割に、時間が細かく分割されてしまうので、短い作品は結構うれしい。

さて、この作品は、アン・マキャフリー版の『長靴をはいた猫』といった感じ。 ただし、長靴をはいた猫のように擬人化されたりはしていない。

舞台は、中世風の世界。 この世に完璧な人間などいないわけで、それは王になる星の下に生まれた人であっても同様のこと。 極めて普通で、それ故、いろいろと欠点もある若い王ジェイマス5世。 その摂政をしていたマンガンは、忠臣であり、賢臣だった。 死期を悟ったマンガンは、自分の死後も、この若き王が道を過たずに平和に国を治められるように、人材を集め、教育し、適所に配置した。 その中でも、要だったのは、猫のニフィ。 マンガンが死ぬと、隣接した領土を治めていた新興の領主は、悪妻にそそのかされ、ジェイマスの国を狙ってくるが・・・というお話。

猫のニフィが、とにかく賢く、勇敢で魅力的。 人間の方は、主人公側のメンバーがそこそこ「いい人」という点を除けば、極めて普通の人たち。 いや、正確に言えば、敵側は邪悪で貪欲な悪役だけど。 なんか、その辺がちょっと微妙だけど、痛快なファンタジーではあった。

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2004.03.27

大量インストールの宴

FreeBSD 4.9-RELEASEを数十台にインストールすることになって、インストール用のデータをCD-Rに焼きまくる。 こういうとき、オープン・ソースのソフトウェアは助かる。

昔なら、ブート・フロッピーを作成したところだろう。 しかし、現在では、コストを計算してみると、フロッピーの場合で2枚×N台×単価、CDの場合で1枚×N台×単価となり、実はそんなに大差ない。 CD-Rを1枚焼く時間と、フロッピーを2枚作成する時間も、インストール時の手間を考えると、微妙なところ。 結局、今回はCDを作成することにした。

最終的なインストール完了の状態をチェックしたいのと、(可能な分に関しては)portsからpackageを作成して使おうと、今、1台のモデル・マシンにインストール作業中。 まず、CD-Rからpackage以外を全部インストール。 次に、Security Informationをチェックして、srcに修正用のパッチを当てて、make buildworldを行い、マシンにあわせてカスタマイズしたカネールも作成。 シングル・ユーザ・モードに移行して、それぞれインストールして再起動。 次にportsから必要なソフトを入れつつ、packageも(作成可能なものは)作成。 個人のディレクトリの下にインストールした(いずれportsからインストールするけれど)Screenが、リモートで作業したり、ログを取ったりするのに超大活躍中。

しかし、Pentium 4の2GHzのマシンを使っているが、たとえば、jdk-1.4.2あたりは、14時45分からmakeを始めたが、まだ終わっていない。 うーむ。 Eclipseのインストールがはじめられるのは何時になることやらやら。

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2004.03.26

天より授かりしもの

アン・マキャフリー著、赤尾秀子訳、『天より授かりしもの』、創元推理文庫、 2004年を読む。

この本は、中世風の世界を舞台にしたファンタジー。 この世界では、人は天賜(ギフト)と呼ばれる力を授かることがある。 しかし、どんな天賜を授かるかは、そのときまで全くわからない。 主人公のミーアン曰く、「天賜はそのときどき、創造主の思いつくままに授けられるんだもの。だからといって、天賜を無視することなんてできない。」というわけ。

さて、お話は、召使いがみんなやってくれる、王女という境遇に生まれたミーアンにとって、ハーブなどの植物を育むという天賜は、全くそぐわないものだった。 そんな生活と天賜との齟齬に悩まされて、ミーアンは身分を捨てて、森の奥に逃げ込んだ。 しかし、何もかもがはじめての、森での暮らしに途方にくれていた。 そのとき、ウィスプという鞭の痕が生々しい少年が現れる。 ウィスプと協力することで、森での生活がだんだんうまくいくようになる。 しかし、あるとき、市にでかけなくてはならなくなって・・・というもの。

この物語の主人公の王女ミーアンは、単に憧れだけで平民の生活に飛び込んで、ダメダメな結末を迎えるようなお姫さまではない。 本当に、森の生活に心の平安を見いだしているところが新鮮だった。 これをご都合主義ととるか、一人の女性の自己実現ととるかは、意見が分かれるところだと思う。 わたし個人としては、物足りないところもあるけれど、どちらかというと好印象だった。 また、物語の起承転結の「転→結」の部分が駆け足で、ややわかりにくかったのは、とってもいいお話だっただけに、ちょっと残念かも。 アン・マキャフリーに、こういう作品があったとは知らなかった。 『だれも猫には気づかない』(赤尾秀子訳、創元推理文庫、2003年)も読んでみようかと思った。

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2004.03.25

家畜人ヤプー 3

江川達也作画、沼正三原作、『家畜人ヤプー』3巻、幻冬舎コミックス バーズコミックス、2004年を読む。

沼正三の『家畜人ヤプー』が、他に例を見ない奇書であるのは間違いない。 それをこれでもかというくらい細かく漫画化したのが、この作品。 この巻では、とうとう現代のドイツ人のクララが、未来世界イースの服を着て、家畜人を使うことで、イースの側に一歩踏み出す。

・・・しかし、そろそろ個人的にはつらくなってきたかも。 文章で読んだときには、流して読んで想像力を抑制できた部分も、こうして絵で見せられてしまうと・・・。 何にせよ、非常に読者を選ぶ作品なのは間違いない。 わたしもこれ以上つらくなったら、素直に撤退することにしよう。

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2004.03.24

客員主席研究員岩田次夫の研究室:残念なお知らせ

客員主席研究員岩田次夫の研究室: 残念なお知らせ(2004.03.24)

わたしは、岩田さんを直接知らない。 でも、何だろう、この気持ちは。

直接は知らないけれど、有名で尊敬する人というのはいっぱいいる。 そして、新聞を見ていると、そんな人たちの訃報にはたびたび出くわす。 でも、そんなとき。 そんなとき、「ふうん」以上の気持ちになることはほとんどない。

しかし、かつては闘病中という話を聞き、そして今回は訃報を聞き、心が乱れている。

わたしは、岩田さんに自分を重ねて「生きる」ということを問うているのかもしれない。 本を作って、人に見てもらうことを楽しみにしている、そんな自分を。 でも、やっぱりわからない。 わからない。

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2004.03.23

創発

スティーブン・ジョンソン著、山形浩生訳、『創発 -- 蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』、ソフトバンク、2004年を読む。

この本は、ミクロなレベルでフィードバックがあるシステムが、マクロなレベルで見ると、思いもつかないようなパターンや機能を獲得するという「創発」現象に関して紹介した本だ。 出てくる例としては、蟻、粘菌、都市、神経回路、インターネットなど。 Maxis社のSimcity、それからSlashdotの話なども出てくる。

本書のスタンスは、「創発バンザイ」といった能天気なものではなく、とっても冷静だ。 「インターネットが自己組織化して、いつか意識を持つ日が来るのか?」といった「百匹目のサル」的なニューエイジャーな問いにも、どうして創発現象が起きて、なんでWebはそのようにならないのかをきちんと説明している。 また、最近の話もきっちりフォローしていて、これからWebがどうなっていくのかに関しても、インスピレーションを与えてくれる。

人と人との組織について、ここのところ考えていたんだけれど、この本を読んで、今までとは随分異なった視点を得ることができた。 最近、読んでよかったと思った本の一つになった。

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2004.03.22

石川へ

研究会で石川へ出かける。

通信環境と書き込む余裕があれば、後で追記すると思う。

その後

Webと知識に関する研究会だったが、なかなかおもしろい人たちが集まっていて、好印象。 宿泊はみんなで温泉で夜遅くまで議論。 この温泉が施設も食事もかなりいい感じだった。

石川の温泉の庭園

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2004.03.21

スター・ウォーズ サイエンス アンド アート

国立科学博物館の横の桜
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国立科学博物館で、昨日からはじまった「スター・ウォーズ -- サイエンス アンド アート」を見に行く。 上の写真のように、花が開いていて、もう上野公園では花見も行われていた。

これは、昨年から今年の夏にかけて各地で行われているアート オブ スター・ウォーズ展の、国立科学博物館バージョンで、サイエンスという側面からもスター・ウォーズを語ろうという企画。 たとえば、スピーダー、ドロイド、ライトセーバー、宇宙船、光子帆船などについて解説されていた。 また、普通に特殊撮影などに関しても解説されていて、非常に短いシーンにも、とにかく気の遠くなるような作業の数々が背後にあったことがよくわかった。 宇宙船の模型は、その手間のかかり方に溜息がでそう。 対象的に、R2-D2の表面の塗装が思ったよりも粗かったのにもびっくり。 後は、アミダラ女王の衣装の多さには、感心してしまった。

出口のミュージアム・ショップでは、いろいろ販売されていたが、その中でも実物大の精巧なライトセーバーのレプリカの予約販売が眼をひいた。 これは、模型店でも売っているものとたぶん同じだろうと思うけれど、その出来といい、価格(数万)といい、何度見てもなんとも印象的。

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2004.03.20

幻魔大戦

古本で購入した石森章太郎著、『幻魔大戦』(1)〜(4)、徳間書店 アニメージュ・コミックス、 1980〜1981年を読む。 これは、石ノ森章太郎が、単独で雑誌「リュウ」に描いた幻魔大戦であり、1〜4巻の途中までが「神話前夜の章」、4巻の途中からが「髑髏都市の章」となっている。 章の構成がアンバランスなのは、大塚英志著、『「おたく」の精神史 -- 一九八〇年代論』、講談社現代新書、2004年にも書かれているが、連載が途中で打ち切りになったからである。 この作品は、アニメ化され、スカイパーフェクTVのアニメシアターXで2002年の夏に放映されている。 アニメのページのストーリー紹介と比較してみると、4巻までしか出ていないアニメージュ・コミックス版よりも、アニメの方が先のストーリーまでカバーしているようだ。

その内容は、ほとんどアニメのページのストーリー紹介が説明しつくしているが、おそらく、幻魔大戦第一作のマンガ版の未来に当たる、幻魔に占領された地球が舞台である。 辺境の惑星に派遣された幻魔の司政官が人類の女性に生ませた双子の兄弟が主人公。 片方は、生まれた後、幻魔の軍勢に連れ去られ司政官の子どもとして育てられ、もう片方は母とともに虐げられながら、原始的な生活に戻ってしまった人間たちと暮らしている。 なんとも王道パターンな設定だ。 第一部は、運命にもてあそばれながら、双子が出会い、父である幻魔を倒すために乗り込んで敗北するところで終わっている。 第二部は、強くなって再び挑戦するようにということで、父に過去の世界に送られた双子の話だが、ストーリーが展開し始めたところで終わってしまっている。

作風は、平井和正の原作で描いた幻魔大戦の第一作のコミックスとは随分異なっている。 しかし、幻魔の心性、超能力戦士の集結、過去の世界への移動といった、共通する要素がストーリーがすすんで行く中でだんだんと現れてくる。 考えてみれば、サイボーグ009などにも、そういった要素のいくつかがあり、石ノ森章太郎と平井和正はお互いに影響を与えあっていたのだなあと思った。 個人的には、石ノ森章太郎による幻魔大戦の中では、S-Fマガジンに1971〜1974年まで連載し、1983年にアニメージュ・コミックスから単行本化された『新幻魔大戦』の印象が非常に強烈だった。

なお、平井和正の小説版の『幻魔大戦』は、最初の方は第一作のコミックス版の展開に従いながらも、途中から、東丈が心と心のつながりである光のネットワークの形成を目指して、新宗教団体を設立するという、全く異なったストーリーに発展した。 これは、東丈が失踪し、残された者たちで奮闘して教団を運営していたが、気がついてみれば、何やらカルト的な教団に変貌していて、あれれ・・・というところで中断している。 果たして、完結する日は来るのだろうか?

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2004.03.19

三途の川・下北話

恐山の風景[撮影: ちはや]
恐山の風景

いし田々著、『三途の川・下北話 -- 青櫓の編』、文芸社、2004年を読む。

この本は、青森出身で、家業を継いで食品販売業を営んでいる、50代半ばのいし田々(いし でんでん)という人が書いたものだ。 一般から原稿を募集して「あなたの本」を出版している文芸社から出た本で、著者のいし田々氏は、いわゆる文筆業を生業にしている人ではないと想像されることを断っておこう。

死んだ一人の老人が、なぜか三途の川を渡れないで、恐山のふもとで過ごしている。 それで、その老人が、成仏する迄の間、他の死者と交わす人間模様(?)を描いたのがこの作品である。

なお、これは現実の話だが、恐山は、この世とあの世を結ぶ土地として「見立て」られている。 それで、実際に「三途の川」に見立てられる「正津川」というのがある。 この川には「太鼓橋」というのがかかっていて、これを渡ることは、あの世に行くことに「見立て」られているのだ。 更に、恐山の境内は「地獄」と見立てられ、そこを巡礼することは「地獄巡り」をしながら行う供養に相当する。 次の写真は、以前、恐山に旅行したときにわたしが撮影したものだが、太鼓橋の横に「三途川」と書かれた道標が写っているのがご覧いただけるだろう。

三途の川(正津川)と太鼓橋[撮影: ちはや]
三途の川と太鼓橋

こんな事情もあり、小説の中で老人が渡れないでいる「三途の川」は、この世とあの世をつなぐ三途の川だが、それは実際に存在している「三途の川」ともどこかだぶって思える。 これは非常に不思議な感覚だ。

また、この本の中で、死者である地元の人たちが交わす会話は方言で書かれていて、かなりわかりにくいが、その内容や考え方が生の形で見える。 宗教学者の人たちが書いた本だと、これらは整理されてしまい、信仰の背後にある「物語」の枠組み(コスモロジー)がクリアに提示されたりするものだが、本書はそうではない。 とても生々しい生活感が、会話のはしばしに現れている。

ただし、これは逆に言えば、わたし個人としては結構興味深い作品だったが、普通の意味でのストーリーテリングや学術性を求める方には、あまりおすすめではないような気も。 青森の下北地方の人の、生の感じを知りたい人には楽しめるかもしれない。

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2004.03.18

デザインの変更

サイトのデザインをちょっと変更してみた。

・・・って、昨日から結構長時間いじっていることに気づく。 あまりコードを書くのにはまると、本末転倒になるので、この辺で一段落ということにしておこう。

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2004.03.17

月別のバックナンバーとカレンダーとMTとTypePad?

このサイトでは、月別のバックナンバーを生成している。 それで、たとえば、2004年1月のバックナンバーには2004年1月のカレンダー、2004年2月のバックナンバーには2004年2月のカレンダー、・・・というのをつけてみたかった。 ココログ プロの登場でテンプレートがいじれるようになったので、早速試してみた。

まず、sidebar.incというファイルをバックナンバー用にarchivessidebar.incという名前でコピーして、それをDateBased Archivesで読み込むようにした。 次に、カレンダーのヘッダに2004年1月だったら「JANUARY 2004」と表示して欲しかったので、<$MTDate format="%B %Y"$>を<$MTArchiveDate format="%B %Y"$>と変更してみた。 次に、カレンダー本体の表示部に書かれている<MTCalendar>を<MTCalendar month="this">と変更してみた。 しかし、テンプレートを保存して、反映しようとすると途中で「問題が発生しました」とか言われてしまう。

テンプレートから別のテンプレートを読み込むのがうまくいかないのかもしれないと思い、DateBased Archivesにsidebar.incに相当する内容を直接書いてみた。 すると、エラーは発生しなくなり、カレンダーのヘッダーは適切に表示されるようになった。 しかし、カレンダーの本体は、どの月別のバックナンバーでも、今月のものが表示される。 ひな形 TAG たちを見ると、これでよさそうなんだけど? MovableTypeとTypePadの差異?

というところなのだが、今日はこの辺にして寝ることにした。

追記

月別のバックナンバーでは、その月のカレンダーよりも、むしろ、そのバックナンバーに含まれている記事の一覧が、右のサイドバーにすっきり表示された方がいいような気がしてきた。 そこで、DateBased Archiveのテンプレートに変更を加えた。 まず、ボディ部分のテンプレートのコードを読んで、日付とタイトルのみを抽出して、サイドバーに表示するようにした。 それから、それ以外の情報(最近の記事やコメント、その他)がたくさん表示されると、わかりにくくなるかもしれないので、すっきりした形に直した。

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2004.03.16

タオ・オブ・オブジェクト

Gary Entsminger著、吉田弘一郎訳、『タオ・オブ・オブジェクト -- オブジェクト指向への東洋的アプローチ』、技術評論社、1992年を読む。

これは、オブジェクト指向プログラミングを、老子やフィリッチョフ・カプラの『タオ自然学 -- 現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』(吉福伸逸、田中三彦、島田裕巳、中山直子訳、工作舎、1979年)を引用しながら解説した本だ。 原書は1991年に出版されており、当然、当時はデザイン・パターン(1995年)、Java(1995年)、UML(ver. 0.9 1996年)はまだなく、中の例は(Turbo)C++とTurbo Pascalで書かれている。

わたしは、この本を、出版された当時に購入し、以来、何度か読もうと試みたが、その度に挫折して、今日に至っていた。 特にオブジェクト指向でプログラムを書かなければならないような状況になかったので、特にそれで困ることもなかった。 そんな本だったが、この間(その1その2)取り上げた『オブジェクト脳のつくり方』『やさしいJava第2版』などを読んでから、この本を読んでみると、きちんと読み進めることができるようになっていることに気づいた。 また、なぜ、当時、読めなかったのかもよくわかった。

この本では、まず口上が長い。 それから、その後でプログラムが示されているが、とにかく雛形になるクラスばかり一生懸命紹介している。 クラスは抽象的なところからはじめて、だんだん具体的なところに向けて仕様を決めて書いていくので、確かに最初の設計の部分も重要だろう。 でも、プログラムは、どこかできちんと動くものとして完成させなければならない。 その実際にきちんと動くプログラムが載っているのは、この本ではいきなり章末で、それはかなり唐突だ。 つまり、オブジェクト指向というよくわからないものと、C++という当時は知らなかったプログラミング言語の組み合わせを、さわりと最後の結論が書かれた本で学ぼうとしたわけで、それはかなりチャレンジングだったというわけだ。 載っている例は、カオス、エキスパート・システム、ニューラルネットなどだが、当時としてはかっこいい例だったのだろうけれど、これも果たして例として適切なのか、またプログラムの実装も適切なのかどうなのか、なんとも・・・。

今となっては、もう昔の本(原書はその後、Delphi版も出たらしいが)という感じがする。 敢えて読むのは、酔狂なんだろうなあと思う。

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2004.03.15

セラピーと新宗教と

前回話題にした、『新宗教とアイデンティティ』の手かざしによる「お浄め」の描写を読んで思い出したことがある。

わたしは以前、グループ・セラピーの団体に出入りしていたことがある。 そこでは、野口体操や、エサレン研究所などで発展したヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの流れを汲むボディワークを行っていた。 その根底には、心と体は相互に深く関係しているという信念体系があった。

この信念体系は、ウィルヘルム・ライヒにつながる(参考: マイロン・シャラフ著、村本詔司、国永史子訳、『ウィルヘルム・ライヒ -- 生涯と業績(上・下)』、新水社、1996年)。 性エネルギー、オルゴンを唱え、トンデモ科学に突っ走ったことで有名なライヒだが、その初期のアイデアには「性格の鎧」というのがあった。 これは、人は感情を筋肉に溜め込んでいるという考えだ。 外からの攻撃を守ろうとする心、それが筋肉として、あたかも鎧のように固くなり、その人を覆っているというのだ。

ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント系のボディワークは、この考えに基づいて、体をほぐすことで、心もほぐれて解放されるという信念に基づいている。 なので、セラピーの一環としてボディワークを行うのだ。

わたしが度々出くわしたセッションは、ボディワークは2人1組になって、片方が全身の力を抜いてねっころがり、もう片方が手とか足とかをもってゆさぶって体をほぐしていくというものだった。 このときの記憶は、『新宗教とアイデンティティ』のpp.116-120の「お浄め」の記述とメタ・レベルでかなりオーバーラップした。 もちろん、「体をほぐす」ことと、「手かざし」という方法や、その理論的背景(実際には信念体系)の違いはある。 しかし、構造としてはかなり類似していて、単語を入れ替えれば、ほとんどそのままだと思った。

また、グループ・セラピーでは、参加者に「今日はどんな気持ちでここにいるのか」というお題で、全員の前で一人ずつ短いお話をさせることがある。 そこでは、しばしば、それぞれのグループ・セラピーがバックグランドとしてもっている信念体系(例・無意識の抑圧が病気の原因である。現在の問題は過去の親子関係に原因がある。適切でないビリーフが問題を作りだしている。etc.)に基づいて、現在の状況が解釈された結果が話される。 それは、ときには「前回のセッションで気づいたことを活用したら、うまくいくようになった」だったり、「○○な問題が最近あったが、それは△△が原因(そのグループにおける病理の理論に基づいた内容)だなと思い当たった」だったりする。 これも、新宗教の法座などにおける体験談の発表と、構造としては同じだ。

そうすると、信念体系や実際の構成員の行動や団体の運営というところがそれぞれの肝であり、その団体の特徴が現れているところなのだろう。 大枠の構造で見ると、いろいろと見えてくるものもある一方で、見えなくなるものもある。 構造が同じでも、批判されるに足る要素を抱えた集団もあれば、そうでない集団もある(もちろん、構造を見ただけでも問題がわかる場合もあるだろうけれど)。 なんとなく、研究の方法論とか論点のパースペクティブの取り方によっては、看過してしまう問題もあるのだろうと思えてきた。

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2004.03.14

新宗教とアイデンティティ

杉山幸子著、『新宗教とアイデンティティ -- 回心と癒しの宗教社会心理学』、新曜社、2004年を読む。

本書は、宗教心理学の総説と、新宗教に関するフィールドワークの紹介である。

宗教心理学に関しては、本書の前半で、海外と国内に関してそれぞれ歴史が詳しく語られている。 これを読むと、宗教心理学は、盛り上がったり、沈静化したりと、時代の移り変わりと要請によって紆余屈曲を経てきたことがよくわかる。 たとえば、ペンテコステ運動のような、信者でない人から見れば心理的な要因が大きいと思えるものが盛んになると、その研究も盛んになるといった傾向である。 また、本書を読んで、国内においては、シャーマニズムの精神医学的研究以外は、盛んでなかったこともわかった。

後半の著者自身のフィールドワークの紹介は、大きく2つに分けられる。 1つはいくつかある真光系の教団の一つである崇教真光の信仰現場の描写と入信理由などの調査。 もう1つは、モルモン教の入信状況の調査だ。

わたしは、子どもの頃、超能力などの神秘的な力にとても興味があった。 そんなわけで、当時、ときたまポストに投函される崇教真光のチラシが非常に魅力的に見えた。 そこには、3日間の研修を受けるだけで、手かざしの能力が習得できると書かれていたからだ。 どちらかというと病弱だったので、病気が治るという期待もあったし、イエス・キリストのような手かざしの能力も得られるとすれば、願ったり適ったりだった。 しかし、結局、隣町にあった研修所に行くことはなかった。 もしも研修を受けていたら、どうなっていただろうという疑問に、本書は少なからぬ示唆を与えてくれた。

本書では、宗教研究によくあるように、手かざしの効果のいかんについては全く触れられてない。 ただどのような営みが行われていて、どのように信念形成が行われるのかが考察されているだけである。 人は、何かの信念(超能力を獲得したぞとか)を維持するには、確固たる証拠とか、あるいは信念を共有してくれる親しみの感じられる人たちが必要だ。 あるいは、そういうものがあれば、信念が維持されてしまうとも言える。 そう、だから、おそらく、もしも・・・。

なお、本書は、(研究の主旨に沿って)現役の信者に対する調査であり、当然、その結果もそれを反映した傾向となっている。 新宗教の場合、やめる人というのも相当数存在し、それらの人々の場合、教団や信仰に対して全く異なったリアリティを持っていることだろう。 そして、教団に対して批判するサイトを開いている人たちもいることを書き記しておこう。

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2004.03.13

小説 彼女が死んじゃった。

「きっとまた会える」の回で取り上げた、TVドラマ「彼女が死んじゃった。」のノヴェライズ、佐野晶著、一色伸幸、おかざき真里原作、『小説 彼女が死んじゃった。』、アーティストハウス、2004年を読む。 TVドラマ「彼女が死んじゃった。」はコミックスが原作だが、ドラマの方が進行が早く、追い抜いてしまい、ノヴェライズも発売された。

何かを求めて、男も仕事も次々と替え、突っ走り続けた女、石井ゆかりが自殺した。 原因は不明。 石井ゆかりの妹、自称婚約者、そして金魚を託された一夜をともにした男の3人は、彼女の自殺の原因を求めて、携帯電話に登録された人たちを巡るというのが、「彼女が死んじゃった。」のストーリー。

謎の自殺をした石井ゆかりは、自由奔放ででたらめ。 その妹の玲子は、まじめでお固い。 自称婚約者の吉川良夫は、「いい人」で女性には全く縁がなさそう。 金魚を託された安西ハジメは、次々と女性をとっかえひっかえのヤることばかりを考えているオトコ。 あまりに違いすぎるこの連中が、死んだゆかりを縦糸に、どんな絵を描くのかがずっと気になっていた。

TVドラマとも原作コミックスとも若干違う、このノヴェライズ。 通して一気に読んで、ゆさぶられた。

ゆかりは、何かが足りなくて、何かを求めて、やりたいと思ったことをとにかくやって、走り続けた女。 そんなことは、普通、誰にもできない。 未来に得られる利益を考えたとき、ちょっとは不本意かもしれないけれど過去のアドバンテージが活かせる方法と、過去の蓄積を全部捨ててもやりたいことにバクチをはる方法の2つがあったら、よっぽどのことがない限り前者を選ぶだろう。 そして、それはたぶん、結構妥当な選択だと思う。 真に「今を生きる」ことと、「何かを為す」こととの間には、深い溝がある(そういう意味で、自己啓発セミナーなどに見られる成功哲学は内的矛盾を抱えている)。 普通の人とはまるっきり逆の行動をとり続けた、そんなゆかりの話を聞いてまわることは、のこされた3人にとっては、自分の姿を海にうつしてみるような体験だったのだろう。 「成長物語」の幕がおりて、「巡礼」の旅を終えた3人は「子ども時代」に別れを告げていた。

今日はまた、ドラマも最終回だった。 舞台もキャストもいい味を出していたと思う。

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2004.03.12

あなたはどんな修行をしたのですか?

NCC宗教研究所、富坂キリスト教センター共著、『あなたはどんな修行をしたのですか? -- オウムからの問い、オウムへの問い』新教出版社、2004年を読む。

本書は、1999年から2002年まで続けられたオウム真理教研究会のメンバーにより、オウム真理教の事件とは一体何だったのかを、さまざまな側面から取り上げたものである。 キリスト教系の出版社から刊行されているが、執筆者は多岐に渡っている。 内容はばらつきもあるが、資料をきちんと読み込んだり、独自の視点から論考を加えたりしているものもあり、結構興味深いものだった。

タイトルの「あなたはどんな修行をしたのですか?」は、執筆者の一人である志村真が、オウムの信徒から初対面で投げかけられた言葉だという。 このタイトルは、「修行」にこだわるオウムのメンタリティを、如実に表したものだと思う。

『秘められた自由の心』(タルタン・トゥルク著、ダルマワークス、1994年)などの訳書もある、林久義の「オウム信者脱会カウンセリングの現場から」、それから『聖者たちのインド』(春秋社、2000年)などの著書がある島岩による「オウム真理教とクンダリニー・ヨーガ」では、麻原彰晃の教義の解明が、それぞれ信者との対話や経典の読解から試みられ、それがクンダリニー・ヨーガを仏教化していったことで、ヒンドゥー教的な真我と仏教的な無我の矛盾をはらんだものであることが指摘されている。 宗教の教義には真偽はなく、正統か非正統か、社会的か非社会的かという文脈になるので、この指摘単独では問題を構成しにくい。 しかし、瞑想のテクニックや仏教の教義という、依拠している対象に対する知識の不足と誤解があり、長く続いてきた教団が培った社会と対立しないための修行のシステムがなかったということは言えるだろうと思う。

それから、オウムにも積極的取り組んでいる弓山達也の「体験談の変遷とその意味」では、教団の機関誌の体験談を精読し、その変化をとらえている。 まず、初期の体験談では、修行を通じてのクンダリニーの目覚めといった個人の神秘体験が主だったという。 続いて、死亡者を出したり、選挙に出たり、石垣島でセミナーが行われるにしたがって、緊迫した雰囲気の中、とにかく成就者が続出していき、最後には病気が治ったなどという話にまで展開するというのだ。

志村真の「オウム真理教問題に苦悩する家族と共に歩む」は、信徒の家族の抱える苦悩が詳しく語られている。 地下鉄サリン事件からも既に10年近く経過し、当時青年だった信徒の、家族たちは老境に入りつつある。 家族が得体の知れない団体に熱狂的に関わることは、非常に大きな心理的な問題になる。 家族がどうしているのかと心配しながら、いつか帰ってきて欲しいと、あきらめずに長い年月、ただただ機会を待ちつづけるのは、年老いた人たちにとっては、想像を絶するほど大変なことだろうと思う。 そのことを、思い出させてくれた。 また、志村真による巻末の年表(「オウム真理教問題年表」(PDF)「日本と世界におけるカルト問題年表」(PDF))は、非常に詳しく驚いた。 特に、「日本と世界におけるカルト問題年表」には、全く聞いたこともないような事件がいくつも記されていた。

アレクサンドル・カバノフの「ロシアにおけるオウム真理教」では、ソビエトの崩壊の時流にのって、政府筋とオウム真理教が結びつき、数万人もの信者を獲得するのに成功したことが描かれている。 このメンバーのうちの一部は、日本とは縁が切れた形で、しかし教義を伝える形で現在も存続しているという。

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2004.03.11

マリア様がみてる 1

長沢智漫画、今野緒雪原作、『マリア様がみてる』1巻、集英社 マーガレットコミックス、2004年を読む。

この原作小説は、コバルト文庫で1998年から刊行されて、既に十数巻を数え、ドラマCD、アニメ、ドールなどのメディアミックスを展開している超人気シリーズ。 舞台は「姉妹」という独特のならわしがある、ミッション系の私立リリアン女学園高等部。 この「姉妹」というのは、ロザリオを上級生から授けてもらうことで、その人の「妹」になり、いろいろと個人的にご指導をいただけるというならわしで、どことなく百合的な人間関係を想起させる。 また、生徒会である山百合会のお姉さまたちは紅薔薇さま、白薔薇さま、黄薔薇さまと呼ばれていたり、生徒同士のあいさつが「ごきげんよう」だったりする。 この様式面での特徴は、1997年放映の「少女革命ウテナ」の系譜を継いでいるような気がする。

それで、今回のコミックス1巻は、原作の1巻目を、ちょうどうまく漫画化(これって結構すごいことかも)。 少女マンガ独特の表現もまじえつつ、思いがすれ違ったりするシーンなど、キャラクターの気持ちがちゃんと伝わってくる。 次巻以降も期待。

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2004.03.10

年老いた子どもの話

ジェニー・エルペンベック著、松永美穂訳、『年老いた子どもの話』、河出書房新社、2004年を読む。

この本は、読んでいるとかなり気分が鬱になってくる。

第二次大戦の戦渦の記憶が残る頃、正体不明の大柄な女の子が、ドイツの街角で発見される。 女の子は、記憶がなく、身よりもわからず、児童養護施設に入れられる。 彼女は、教師の眼から見ると、本当に何もできない。 さぼっているわけでもないのに、手取り足取り、一から全部、何度教えても全く身に付かない。 とにかく、果てしなくダメダメなのだ。 実は、これは彼女の意図的な行動で、教師からいわく言い難い種類の同情を引き出していた。 しかし、それは同級生には通用しない。 同級生は、彼女をいじめの対象として認識するが・・・というお話。

彼女は、一体なんだったのかというと、本の帯にも書かれていることから明らかなように、人生をやり直したかった女性である。 大人になるということは、いろいろな社会的現実と向き合う必要がある。 彼女はそれから逃れて、学校に救いを求めた。 彼女にとっては、学校の中で起こることは、社会的現実とは独立だった。 学校で失敗しようが、成績がダメだろうが、いじめにあおうが、何が起ころうとも、そんなものは所詮ニセモノで、自分自身の人生には何ら、一切影響がないものだったのだ。 いつまでも、いつまでも、ホンモノと向き合わずにいたかったのだ。

わたしは、学校だって、現実の一部だと思うし、それ故、この本の主人公の行動はかなり不快だ。 でも、もしも、あまりに大人の現実がつらくて、学校の中でのことがすべておママゴトだと認識されたら・・・。 そして、一般論として、学校で何年学んでも、身に付かなかったり、社会に出て即戦力にならなかったりすることの背景には、どこか学校のことを、おママゴトだという気持ちがないわけでもないかもしれないではないか。 この皮肉な視点が、本書の特徴であり、また後味を極めてよくないものにもしている。

なお、この本の帯には次のように書かれている。

もう一度、子ども時代をやり直せるとしたら あなたはどこから始めるだろうか?

非常に魅惑的な言葉だ(いや、『年老いた子どもの話』の主人公のようなやり直しは望まないけど)。

わたしは、この帯の言葉を読んだときに、ジョン・ブラッドショー著、新里里春監訳、『インナーチャイルド 改訂版 -- 本当のあなたを取り戻す方法』、NHK出版、2001年の冒頭の方に記載されている「ルーディ・リボルビンの二重の悲劇」というお話を思い出した。 それは、悲惨で苦悩に満ちた人生を送ったルーディが、死んで暗黒界に行くと、暗黒界の統治者から「もう一度人生をやり直したくないか?」と問いかけられる。 ただし、「記憶は全部失って」という条件で。 ルーディは、さすがにそれでは同じことを繰り返すことになるだろうと、この申し出は断った。 しかし、更なる申し出は受け入れてしまった。 それは、「お前には特別にすべての記憶をそのままで、人生のやり直しをやらせてやってもいいぞ」だった。 しかし、「心の内の傷ついた子ども(インナーチャイルド)」を抱えていたルーディは、そのためにまた悲惨な人生を繰り返し、世界の暗黒はまた深まり、暗黒界の統治者を喜ばせることとなったのだ・・・というお話だ。 この話の元ネタは、P・D・ウスペンスキーの『イワン・オソーキンの不思議な人生』である。

『インナーチャイルド』では、この話を「(頭でいくらわかっていても)子ども時代の傷ついた経験を癒さない限り、あなたは不幸を繰り返し続ける」のであるという主張を強調するために使っている。 『インナーチャイルド』という本は、このような主張の解説と、それに基づいて「内なる子どもを癒す」ためのレッスン(神経言語プログラミングや交流分析やグリーフワークのまぜこぜ)が示されている。

なお、『インナーチャイルド(原題 "Homecoming")』は、エリザベス・F・ロフタス、キャサリン・ケッチャム著、仲真紀子訳、『抑圧された記憶の神話 -- 偽りの性的虐待の記憶をめぐって』、誠信書房、2000年で、エレン・バス、ローラ・デイビス著、原美奈子、二見れい子訳、『生きる勇気と癒す力 -- 性暴力の時代を生きる女性のためのガイドブック』、三一書房、1997年とともに、問題が指摘されている本である。 その問題とは、それらの本に書かれているような治療を行ったセラピストが、場合によっては実際に存在しない性的虐待の記憶を作り出し、更に裁判するようにすすめ、証拠もないのに父親が近親相姦と強姦の罪で懲役に処せられたりしているという、「偽記憶症候群」の問題である。 また、このような治療で存在しない記憶を蘇らせた結果、むしろ病状は悪化し、社会的な生活にも悪影響が生じたという話が、矢幡洋著、『危ない精神分析 -- マインドハッカーたちの詐術』、亜紀書房、2003年に紹介されている。 なお、『危ない精神分析』では、PTSDのバイブル、ジュディス・L・ハーマン著、中井久夫訳、『心的外傷と回復<増補版>』、みすず書房、1999年も批判されている。

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2004.03.09

やさしいJava第2版

高橋麻奈著、『やさしいJava第2版』、ソフトバンク、2002年を読む。 昨日、『オブジェクト脳のつくり方』を読んだので、「鉄は熱いうち打て」ということで、Javaの本も読んでしまおうと思った。

この本は550ページ近くあるが、最初の方はCを知っていればすいすい読み進める。 途中でオブジェクト指向の話になるので、そこからていねいに読んでみた。 鉄が熱いうちに打ったおかげで、かなり理解が深まったような気がする。 後で、ノートにポイントを書き出すといい感じかな。 最後の部分は、例外処理、ストリーム、スレッド、アプレットといった、Javaのいくつかの特徴的な話で、ここはプログラムを書く練習をしながら読むつもり。

なんか、非常に徳をした気分になった。

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2004.03.08

オブジェクト脳のつくり方

牛尾剛著、長瀬嘉秀監修、『オブジェクト脳のつくり方 -- Java・UML・EJBをマスターするための究極の基礎講座』、翔泳社、2003年を読む。

この本は、Javaで書籍カタログ・サイトのようなWebアプリケーションを作りながら、オブジェクト指向開発を身につける本だ。 第1部では、オブジェクト指向のご利益とデザインパターンの話が、演習を通して紹介される。 第2部以降は応用編で、カタログ・サイトをつくりながら学ぶ。

この本を通して、何がポイントなのかということと、何を学ぶと便利になるのかはかなりクリアにわかった。 しかし、内容はけっこう唐突で、第1部の簡単な演習をするには、実はJavaの基礎は知っておいた方がベターのような気がする。 ・・・とは言え、Javaを学ぶときにはオブジェクト指向の考え方を知っていると便利で、そのオブジェクト指向を紹介している本書ではJavaを知っていると便利だという、にわとりと卵みたいな関係があって、なかなか悩ましいところがある。 これは、第2部以降にも言えて、そこではEJBに関して似たような関係がある。 他の本ではあまりクリアに書いてないことが書いてあるので、それらと相補的に活用して、読み進めるのが適切な使い方なのかなという気がしている。

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2004.03.07

春の訪れを覚える

ジャスミン茶とパウンドケーキをいただく。

わたしはお茶が好き。 最近、近くに、本格的なスパイス・ティー(紅茶+ミルク+スパイス)が出てきて、おいしいケーキもあるお店ができた。 そこで過ごす時間は格別で、そんなに頻繁に行くわけではないけれど、でかけることがとても楽しみになっている。 集中して本を読んだり、ちゃんと考えた上で原稿を書くのには、ちょっと気分を変えて、邪魔の入らないところで、お茶を楽しみながらというのが理想的。

わたしがそんなふうにお茶を好きなことを知っている人が、ジャスミン茶をくれた。 丸い固まりをカップに入れて、お湯をそそぐと、花が開くように見えるお茶で、とってもうれしかった。 パウンドケーキも春を感じさせるもので、こころづかいがとてもうれしい。 しばらくハードな状態が続いているので、いただいたお茶とお菓子を楽しんで、気持ちを新たに春を待ちたい。

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2004.03.06

さべあのま全集

メディアファクトリーのMF文庫で12月から毎月1冊ずつ刊行されている《さべあのま全集》の1〜4巻を買う。

さべあ のまというと、個人的には『LIGHT BLUE PAGE』(奇想天外社、1980年)や『懐かしい贈りもの』(新潮社、1990年)を読んだときのことが忘れられない。 アメリカのコミックっぽさと、日本の1980〜90年代の少女マンガっぽさを持った絵柄で、夢を描きながらも、現実も忘れない作品が好きだった。

わたしが、最初にさべあのまの作品にふれたのは、知り合いの人が処分しようとした大量の本を選り分けていたときだ。 その人は、人生に迷っていた。 自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、そう悩みながら、いろいろと試行錯誤していた。 他の仲間たちは、なんとなく大学で学び、そつなく進級して、卒業していった。 たぶん、その人は、そんな生き方に疑問を持ってしまったのだろう。 と同時に、プライドや怠惰や非力さも手伝って、煮詰まるところまで煮詰まってしまっていたのだ。 すべてをあきらめて故郷に帰るその人が、置いていった数々の名作は、やさしくて、苦い作品が多かった。

わたしは、かつてのそんなやりきれない気持ちを思い出しながら、さべあのまの作品を今読んでいる。

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2004.03.05

白土三平論

四方田犬彦著、『白土三平論』、作品社、2004年を買う。

白土三平は、わたしにとって不思議な作家だった。 たとえば、代表作である『カムイ外伝』(初期)と『カムイ外伝』(後期)では、絵が全く違う。 『カムイ外伝』(初期)は少年漫画タッチなのに、『カムイ外伝』(後期)は劇画タッチだ。 そのもやもやとした気分になんらかの解決を見るのは、『カムイ伝 第二部』において、白土三平作・構成、岡本鉄二画とクレジットされているのを見たときだった。

それから、『カムイ伝』という、いささか読みにくい作品が、評価を得ていて、それが学生運動とも関係があるらしいというのも、また謎だった。 そもそも、学生運動の主体や方向と、『カムイ伝』の内容は、どうもずれているような気がしてならなかったからだ。 もしも、これに共感しているんだとしたら、それは大いなる誤読に基づいているのではないかと、そんな気分に読んでいてなった。

この本、『白土三平論』は、白土三平の軌跡を辿りながら、その作品の意味を考察している。 白土三平の漫画は読みながらも、その事情をほとんど知らなかったわたしにとって、この本はいろいろと多面的な情報を与えてくれた。 まだ最初の方を読んでいるところだが、いくつかの読んだことがある作品が描かれた時代、背景、その独創性、後の作品への影響など、わかりやすく書かれていて、非常に深く知ることができた。

2000年から休載されている、白土三平の『カムイ伝 第二部』の再開を、この本で思いを新たにしながら待ちたい。

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2004.03.04

展示の準備

展示の準備をして、疲れる。 眠りに落ちていたことにふと気づく。

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2004.03.03

展示と発表の準備

今までしばらく力を入れてやってきたことを、展示したり、発表したりする機会がこれからしばらくある。 描いた絵を持ち寄って展覧会を開いたり、イベントの仕事をしたり、冊子を編集したりとか、そういう経験が、こういうときになると妙に役に立ったりする。

昔(と言ってもつい最近だけど)と今で大きく違うことは、一つはDTPかなと思う。 昔だったら、ワープロで打ち出した文章を、コピーして、切って、ペーパーセメントで貼付けてレイアウトしていたのが、今ではほとんどコンピュータでできる。 配置をいろいろと試したり、フォントや色を選んだりするのがとても手軽になった。 昔は、白黒でしか作れなかったものも、(必ずしも万能ではないけれど)いろいろな場面でカラーで作ることができるようにもなった。 あのとき、このシステムがあったら、と思うこともたまにある。

そうそう、こうして制約が減って、いろいろと自分でできるようになってくると、自分のスキルのなさを思い知る機会も増えてきた。 同じソフトを使っても、かっこいいものが作れる人と、作れない人は存在する。 制約が多いと、ああ、この制約があるから、この程度のものしか作れないんだよなあと思っていても、いざ制約がなくなると、実はそうでもなかったということも・・・。 プログラムなんて、典型的かもしれない。 フリーのプログラム開発キットはいろいろあるけれど、実際それを使って、どの程度のものが作れるかは個人の力量にかかってくる。

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2004.03.02

インターネットにおける行動と心理

A. N. ジョインソン著、三浦麻子畦地真太郎、田中敦訳、『インターネットにおける行動と心理 -- バーチャルと現実のはざまで』、北大路書房、2004年を読む。

この本は、2003年に原書が出たばかりの、インターネットにおける人間のふるまいに関する研究書だ。 同じカテゴリーに属する本には、パトリシア・ウォレス著、川浦康至、貝塚泉訳、『インターネットの心理学 -- ネット上で人の行動はどう変わるのか』、NTT出版、2001年がある。

この2つの本の特徴は、幅広くインターネットに関する研究が調査され、紹介されているところだ。 世の中には、「自分でこんな研究やってみました」とか、非常に狭い知り合いの研究者づきあいの範囲で研究が紹介されているだけの本というのは、残念ながらいっぱいあるが、これらの本はそうではない。

個人的には、論旨の明確さとか、わかりやすさという点では、『インターネットの心理学』だと思う。 これは読んでみて、とてもいろいろと考えさせられるところが多かった。 一方、『インターネットにおける行動と心理』の方は、話がすっきりとはまとめられてはいなくて、行きつ戻りつするような感じがした。 ・・・いや、しかし、これはむしろ、現実世界の複雑さが如実に現れていると言えるのかもしれない。 非常に最近の研究報告の占める割合も高く、それらは「インターネットって、センセーショナルに取り上げられてきたけれど、実はそれらはあまり正確じゃない。 きちんと調べると、いろいろな要因があってね。 でも、それでも特筆すべきこんな傾向もあるんだよ。」という感じ。

本書で取り上げられているのは、メール、チャット、ニューズ・グループ、WWWなどの他に、日本ではあまりなじみのないMUDやMOOなど。 MUDやMOOは、たとえばラグナロクオンラインのようなMMORPG(オンラインRPG)の映像なし版だと言えばわかりやすいだろうか。 取り上げられている側面としては、個人指向かそれとも集団同調指向か、けんか、個人情報の偽装(ネカマ、偽のプロフィールや写真)、心理的影響、ポルノ、自己開示、社会性、ネットでの出会い、恋愛、セックス、支えあいなど多岐に渡る。

ふと読んでいて思ったのだが、LambdaMOOを使った、サイバーセックス部屋の記述があるのだが、これはLambdaMOOを使ったことがない人にはかなりわかりにくかったのではないかと。 いや、そう考えると、ニューズ・グループも、見たことがない人にとっては想像しにくいかもしれない。 そもそも、ネットのサービスは、いろいろと技術上の制限があって、あまり人間工学的に素直なものになっていないので、体験したことがない人にわかりやすく伝えることは難しいのかもしれない、という気もしてきた。 ちなみに、ネットのサービスの技術的な制約が、利用者をどういう方向に誘導するのかというのは、本書の話題の一つだ(あまり、アフォーダンスを連呼するのは、どうかと思うが)。

特に読んでいて衝撃的だったのは、文書、電話でさえ、今日のインターネット利用批判の上を行くかもしれない批判にさらされていたという話だ。 プラトンが書き言葉は心を弱めるなどと批判していたことは全く知らなかった。 また、電信技師の間で、今日のインターネットで出会って結婚とでもいうべき事例が見られたという話もびっくりだった。 これらは、技術が普及すると、初期の頃には誰も思いつかなかったような使い方がどこかで見つかって、それが場合によっては主流にさえなるということを意味している。 そして、初期の頃に懸念されたような悪夢もまた、同様な道をたどるのだろう。

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2004.03.01

一回休み

ちょっと余裕がなくて一回休み。

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