セラピーと新宗教と
前回話題にした、『新宗教とアイデンティティ』の手かざしによる「お浄め」の描写を読んで思い出したことがある。
わたしは以前、グループ・セラピーの団体に出入りしていたことがある。 そこでは、野口体操や、エサレン研究所などで発展したヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの流れを汲むボディワークを行っていた。 その根底には、心と体は相互に深く関係しているという信念体系があった。
この信念体系は、ウィルヘルム・ライヒにつながる(参考: マイロン・シャラフ著、村本詔司、国永史子訳、『ウィルヘルム・ライヒ -- 生涯と業績(上・下)』、新水社、1996年)。 性エネルギー、オルゴンを唱え、トンデモ科学に突っ走ったことで有名なライヒだが、その初期のアイデアには「性格の鎧」というのがあった。 これは、人は感情を筋肉に溜め込んでいるという考えだ。 外からの攻撃を守ろうとする心、それが筋肉として、あたかも鎧のように固くなり、その人を覆っているというのだ。
ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント系のボディワークは、この考えに基づいて、体をほぐすことで、心もほぐれて解放されるという信念に基づいている。 なので、セラピーの一環としてボディワークを行うのだ。
わたしが度々出くわしたセッションは、ボディワークは2人1組になって、片方が全身の力を抜いてねっころがり、もう片方が手とか足とかをもってゆさぶって体をほぐしていくというものだった。 このときの記憶は、『新宗教とアイデンティティ』のpp.116-120の「お浄め」の記述とメタ・レベルでかなりオーバーラップした。 もちろん、「体をほぐす」ことと、「手かざし」という方法や、その理論的背景(実際には信念体系)の違いはある。 しかし、構造としてはかなり類似していて、単語を入れ替えれば、ほとんどそのままだと思った。
また、グループ・セラピーでは、参加者に「今日はどんな気持ちでここにいるのか」というお題で、全員の前で一人ずつ短いお話をさせることがある。 そこでは、しばしば、それぞれのグループ・セラピーがバックグランドとしてもっている信念体系(例・無意識の抑圧が病気の原因である。現在の問題は過去の親子関係に原因がある。適切でないビリーフが問題を作りだしている。etc.)に基づいて、現在の状況が解釈された結果が話される。 それは、ときには「前回のセッションで気づいたことを活用したら、うまくいくようになった」だったり、「○○な問題が最近あったが、それは△△が原因(そのグループにおける病理の理論に基づいた内容)だなと思い当たった」だったりする。 これも、新宗教の法座などにおける体験談の発表と、構造としては同じだ。
そうすると、信念体系や実際の構成員の行動や団体の運営というところがそれぞれの肝であり、その団体の特徴が現れているところなのだろう。 大枠の構造で見ると、いろいろと見えてくるものもある一方で、見えなくなるものもある。 構造が同じでも、批判されるに足る要素を抱えた集団もあれば、そうでない集団もある(もちろん、構造を見ただけでも問題がわかる場合もあるだろうけれど)。 なんとなく、研究の方法論とか論点のパースペクティブの取り方によっては、看過してしまう問題もあるのだろうと思えてきた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント