昨日とりあげたホームオブハートのMASAYAは、1990年にアイランドという会社をおこしている。
当時、いろいろな雑誌に取り上げられたが、その頃はリゾート開発系の会社として紹介されていたと思う。
当時のMASAYAの談話には、πウォーター、ハンガー・プロジェクト、ナポレオン・ヒル・プログラムなどの単語が出てきていたと記憶している。
その頃は、「愛ランド」計画というのがあり、勝ち負けがなくて愛と優しさと思いやりを共有できるといったスローガンで、東京湾に浮き島型リゾートをつくるんだという話だったと思う。
今にして思えば、これは80年代バブルと、ニューエイジ、精神世界思想と、自己啓発セミナー的な成功哲学の結びついた、一種のコミューン設立計画だったのだろう。
これはさまざまな変遷を経て、思想を共有している人たちによるクローズドな共同生活団体という形へ行き着くことになる。
自己啓発セミナーやグループ・セラピーの中では、参加者間でお互いに深く理解しあえたという錯覚が発生する。
それは、一見、とてもすばらしいことに思える。
さらにこの延長で、セミナーやセラピーの手法や、そして団体そのものもすばらしく思えてくる。
しかし、このような感覚は、日常に戻ったときに継続しない。
人と人とで深く理解しあえる!
すばらしい!
と実感した参加者を待ち受けているのは、理解がなくて、いやみったらしく、偏見にみちた配偶者や家族や友人や職場や学校の人たちだ。
このとき、参加者たちにとって、この日常に適応するか、日常をセミナーやセラピー空間に適応させるかの選択肢がある。
そもそも、うまくいっていない人生をうまくいかせたいのであれば、それは日常の中でどう生きるかの問題で、日常に適応するのが妥当な解決方法だろう。
セラピーという営みは、人工的につくられた異界の中で、ほんの一瞬、日常の軛から解放された状態になり、そこで何かを見つけて、日常に戻ってきてちょっとだけ何かが変わるという、「行きて帰りし物語」の形式にならないとうまく機能しないだろう。
でも、人工的に作られたセミナーやセラピーの空間は、非常に刺激的で心地よく、日常にもどってくるとそこで見た素晴らしいものが色褪せてしまうことがあるので、戻ってくるには努力が必要だ。
一方、セミナーやセラピーの人工的な空間こそが本物であり、日常は何か間違っているという、思いを抱くと、最終的に行き着くところは、世界の人の○○%(場合によってはすべて)にセミナーやセラピーを受講させたいとか、わかっている人たちが集まって理想郷を作ろうとかいう方向になりがちだろう。
そう言えば、過去にとあるグループ・セラピーの指導者が、「セラピーのセンターを作って、みんなでそこで共同生活をしたい。
そして、毎日、ずっとこうやってセラピーを続けられたらいいのになあ」といった主旨の発言をするのを聞いたことがあり、そのとき、わたしはかなりこわかった。
「毎日、毎日セラピーをするって、何のために?
セラピーは、日常生活でうまくいってないと思うことがあるからしているわけで、日常生活のないセラピーや、セラピーが日常化した世界というのは、そもそも何なんだ。
目的を失って、手段が自己目的化したマスターベーションのようなセラピーって、どこに行くかわからないじゃないか。
こわい」。
そう思った。
さて、ホームオブハート関係では、以下のようなページができている。
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