最後にして最初の人類
オラフ・ステープルドン著、浜口稔訳、『最後にして最初の人類』、国書刊行会、2004年を読む。
オラフ・ステープルドンと言えば、宇宙の発生から終末までを描いた『スターメイカー』(浜口稔訳、国書刊行会、1990年)が有名。 本書は、『スターメイカー』と並ぶ、特異な作品だ。
1930年に原書が出版された本書『最後にして最初の人類』は、<最後の人類>が、時を越えて<最初の人類>であるわたしたちに語りかけてきた物語という体裁を取っている。 本書では、第一次世界大戦からはじまり、20億年後の第十八期人類である海王星に棲んでいる最後の人類までの叙事詩が語られる。
普通の小説では、一人(あるいは複数)の主人公が存在して、一人(あるいは複数)の人間を取り巻く物語が展開する。 しかし、この『最後にして最初の人類』では、ほとんど一人の人間が語られることはなく、主語は「種としての人類」になっている部分が大半である。 まず、最初のうちは、国家間の争いが語られるが、次第に種としての人類にシフトし、ガス状の火星人類との攻防、理想的な形態への自己改造、金星改造と金星人類の殲滅、地球の滅亡と金星への植民、金星での人類、太陽の膨張と海王星への退避、種としての零落と発展、太陽系の崩壊と最後の人類・・・という感じで語られていく。
その語りは、これまでの人類の歴史と、人間観察をフルに活用し、皮肉と信じられないくらい膨大な想像力によっている。 この物語の中で、種族は、あっけなく滅亡したり、それでも雑草のように勃興したり、変な風習にとらわれたり、独特の社会システムを築いたりする。
「壮大な年代記」というと、わたしの場合、ふと、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳、新潮社、1972年)などが頭に浮かんでくる。 しかし、スケールだけで言えば『最後にして最初の人類』の方が比べ物にならないくらい大きく、密度も高い。
いずれにせよ、全く普通の小説ではなかった。 ありがちな小説の楽しみ方としてキャラクターに感情移入するというのがあるが、そうしようにも、適切なキャラクターが出てくることは稀であり、それもほんの須臾の間でいなくなってしまう。 その辺は覚悟して、ほとんどお目にかかれないような特異な作品だということをふまえて、読んだ方がいいんじゃないかと思う。 とにかく、とてつもない作品だった。
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