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2004.06.28

水面

いろいろとライフスタイルに制限がつく宗教がある。 そんな宗教にかぶれた人物から話を聞いた。

曰く、清らかになりたいと。 そのために食事に制限を付けると。 すると、清らかになったような気がすると。

問う。 何ゆえ、その制限により清らかになるのかと。

答えて曰く。 知らず。 されど体験したと。

しかし、それは問いの答えではない。 教祖がそう言ったから以上の根拠などない。

悲しくも、寂しさをごまかして埋めようとしている景色がそこにあった。 そんな風景を見ていると、わたしの胸がちりちりと焦げる臭いが漂ってきた。

昔、経典を読み、恐怖を覚えた自分がいた。

破滅の日がやってくるという。 それは今この瞬間かもしれない。

いや、そんなことがあるわけがない。 ・・・でも、もしも万が一にも真実だったら・・・。

罪深く、信心の足りないわたしは救われない。 永遠に苦しみの中に囚われる。

それは怖い。 いやだ。 救われたい。

そのためには、決められた教えを守って、いい人にならなければならない。 救われるには、いい人にならなければならない。

でも。

恐怖があるからいい人になろう、そう努力することで、本当にいい人になれるのだろうか。 恐怖がなければ、いい人ではないとしたら、それは果たしていい人なのだろうか。

救われたいからいい人になりたい。 そんな欲にふりまわされた人は、いい人なのだろうか。

いい人の存在が、恐怖や救済欲によって支えられているというのはどこか歪んでいないか。 いい人というのは、恐怖にも、救われたいという欲にもよらず、いい人でいるような人ではないのか。

別に、これは特定の教えに限定されない。 構図の問題だ。

要は、強力な妄執に支えられた修行などによって、何か高いステージに至るのだとすると、それはシステムとしていびつではないか。 その階段を上り切った先にあるものは、果たして本当に素晴らしいものなのか。

教義の構成上は、そのことに触れないか、どこかで悟りがひらけるといったことにでもしてあると思う。 でも、果たして本当にそうなのか。 実は、おそろしく執着の強い人物が、ああ到達したんだと錯覚するに至った道を、同じように歩むように構成されているという可能性はないのか。

様々な思いが巡っていく。

ふと、改めて見る。

その人物が清らかになりたいと思うのは何故なのか。 むしろ問題は、清らかなんていう曖昧で漠然としたものではなくて、清らかになった結果、得られるんだと誤解しているもの、そのものの方ではないのか。

○○←清らか←ライフスタイル

二重に遠回りして、しかもそれぞれの因果関係がまやかしだったら、いくらがんばっても錯覚以上のものが手に入るはずもない。 手に入らないのは、努力が足りないからだと誤解すれば、ますます無駄な努力は費やされるだろう。

いや、あるいはこれも救済のカタチなのか。 幸福は主観による。 水面の反対側から見れば、景色もまるで違う。 他者の価値観をとやかく言うのは、尊大なおこがましいことなのかも。

いや、しかし・・・。

そんな気持ちが胸を焼いていく。

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