« 新年企画 易占 2005 | トップページ | 秘密商会しすあど! »

2005.01.02

カリスマ 上・下

新堂冬樹著、『カリスマ (上・下)』、徳間書店、2001年を読む。

本書は、カルト宗教のグルと脱会カウンセラーの戦い(?)を描いた作品。 先日、この本をコミックス化した作品を読み、興味を抱いたので、読んでみた。

著者の新堂冬樹氏は、当時、この本を書くまでは闇金融関係の小説が多かったらしい。 そのためか、セックスや個人のコンプレックスの表現などに関して、かなりエグい表現が多い。

ストーリーは、かつてカルト教団に母が入信し、その結果、家庭が崩壊。 そのことが原因で争いとなり、母が「悪魔に取り憑かれた」父を刺殺して、母自身も「悪魔をえぐり出す」ために内臓を切り裂いて自殺するという事件が発生。 その両親の子どもが、かつての出来事への執着から、自分でカルト教団を設立し、かつての事件の団体以上の組織を作り上げる。 そして、この教団、教祖の母の若い頃に似ていたためターゲットにされた女性の家庭、脱会カウンセラーの間の物語を描いたのが、この作品だ。

特徴としては、教祖や幹部、教団にターゲットにされた被害者たちの、内面の醜さをかなり書き込んでいること。 洗脳の方法とプロセス、そして洗脳された信者の思考内容を描いていること。 大どんでん返しがいくつも用意されていることなどだ。

本書で描かれている洗脳の方法論は、大きく分けて2つ。 1つは、勝手に信者がいろいろな矛盾を正当化して、かつ思考停止するための方便の活用。 もう1つは、隔離された空間で、粗末な食事と、少ない睡眠、疲労の状態で、同じことを延々と考えさせて脳をパンク状態にして、荒唐無稽な話を受け入れさせる方法だ。

前者は、たとえば、教団によくないことが起こったり、信者が教団に入信しても救済されなかったとしても「全知全能のメシアだから、本当はなんでもできる。でも、すべては信者の成長のために、敢えて試練を課している。これはお前が試されているんだ」という、オウムをはじめとして使われていたレトリック。 これは、教団の提供する救いが、実は空虚であることを隠蔽できる。 ちなみに、こういうレトリックは「信者の努力や修行の進度が足りないからダメだった」とかいうものにも代替可能だ。 それから、「この世のすべては、幻影(マーヤー)であり、我欲である。これに囚われていると地獄に堕ちる。それらの執着を捨てる必要がある」という、仏教っぽいレトリック。 これは、世間常識や、他人に対する迷惑を慮る気持ちを抑え込み、教団に入ったことで、今までの生活が破壊されることを、よしとさせるテクニックだ。 実は、これらのレトリックは、カルトに限らず、宗教等、他の団体などでも、用語は異なっても使われている場合がある。 特に宗教とある程度深く関わるつもりの場合には、その危険性には十分に留意しておきたいものだ。 このような団体の責任回避と日常生活の破壊のレトリックが極端に濫用され、その結果、ひどい事態が発生するというのが、この種の問題のポイントになる。

それから後者の洗脳のメカニズムは、米本和広がヤマギシ会を取材して書いた『<増補・改訂版> 洗脳の楽園 -- ヤマギシ会という悲劇』(宝島文庫、1999年)だったと思うが、神経生理学者の澤口俊之が提示した脳のワーキングメモリーがパンクして洗脳されるという「仮説」に依拠している。 洗脳のメカニズムが本当にそうなっているのか、どうなのかはよくわからない。 しかし、方法論として、経験的に、極限状態で同じことをくりかえし考えさせるというのは、有効ではあるのだろうと思う。

なお、脱会の過程は、資料がなかったのか、ほとんど描かれない。

これまでの自分を否定され、カリスマに依存するしかない状況におかれた信者。 それが、なんらかの原因により、その信じる対象がなくなったり、教団を追い出されたりすると、信者は宙ぶらりんになり、回復には時間がかかることだろう。 教団にいても、やめても、度合いや質の差はあれ、精神的にきつい状況であることには違いがないような気がする。 そういう意味では、ヤバい団体に対しては、関わらないようにする予防が本来は重要だろう。

さて、本書では、ネタバレになってしまうので書かないが、脱会カウンセラー側にもかなりトンデモない設定があり、相当に救いのない結末が描かれる。 全編を通じてかなりエグい小説だった。

|

« 新年企画 易占 2005 | トップページ | 秘密商会しすあど! »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: カリスマ 上・下:

« 新年企画 易占 2005 | トップページ | 秘密商会しすあど! »