藤田庄市著、『熊野、修験の道を往く -- 「大峯奥駈」完全踏破』、淡交社、2005年を読む。
藤田庄市氏は、宗教関係をメインとしたフォトジャーナリスト。
本書にも、多数の写真が使用されていて、雰囲気が伝わってくる。
本書は、昨年2004年の8月30日から9月10日まで、ユネスコの世界遺産に指定されたことを記念して行われた、熊野の「大峯奥駈」の行の参与記録だ。
出発は奈良の吉野川の柳の渡し、終点は一度海岸まで出てからまわって戻って熊野本宮大社。
この240kmを12日間かけて踏破する。
だいたい1日20kmくらいになるが、険しい山道で、場所によっては90度の絶壁だったりする。
特に、このルポで取り上げた回に至っては、台風や地震に襲われるというすごい条件下の行になっている。
そのハードな行の様子が、非常によく伝わってくるルポルタージュだった。
読んでいて思ったのは、そもそも何故このような行を行うのかだ。
行を行ったとしても、別に神秘体験するわけでもないし、超能力が身に付く訳でもない。
清らかになろうとして行に臨めば、逆説的に遠ざかる。
日常の重要さが、参加者の間でも語られる。
自ら望んで厳しい行にむかいながらも、そこそこのハードさにとどめている。
もしも、単に厳しい修行をしたいだけなら、最悪何も準備しないで望めばいいわけなのだから。
いや、たぶん、こういった思念を越えた、圧倒的な体験が、たぶんそこにはあるのだろう。
ふと、人の手のあまり入っていない霊峰を何かを求めて歩いたことや、日の出を見るために山頂まで登ったことを思い出した。
わたしの場合、歩いたり、登ったりしているときは、それこそ雑念の固まり、つらいだけだった。
登ったからといって、そのときに何かがあったわけでもなかった。
ただ、それから時間がたって、熟成されてくるものが、ある種のリアリティをもって感じられるのだ。
読んでいて「いいなあ、行ってみたいな」と思う一方で、そんな体験を思い出しながら、きっと歩いているときはすごくつらいだけだろうと直感がささやくのだった。
なお、本書のおわりには、この行で起こった落下事故に関して、因縁の問題が取り上げられている。
宗教では、いいことや悪いことは、超越した何かに帰結させることがある。
人生すべてに意味があると思いたがるニューエイジ、トランスパーソナルな潮流もその一種だ。
たとえば、自分に苦難が訪れれば、神が与えた試練だったり、よくないことをした罰。
いいことが起これば、神の恩寵だったり、その教団に入信したり、信仰しているから。
手を叩いた音は、どちらの手が鳴ったのかという公案があるが、まるで鳴ったのは左手だとか、右手だとか言っているようなものだ。
このようななんとでも言える論理は、使い方によっては、見えない世界と自分が繋がっているというスピリチュアルな実感にもなれば、教団の指導者が信者を搾取する非常に強力な道具にもなる。
今回、本書で取り上げられている話では、敢えて、超越的な部分には踏み込んでいない。
また、参加者の談話を見ても、非常に宗教的な行ではあるのに、どこか日常的な感性がみられるような気がする。
継続してこのような問題は考えていきたい。
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