今月の27、28日に武蔵野大学で、第53回日本グループ・ダイナミックス学会が開催される。
公開の大会シンポジウムは、「グループ・ワーク その光と陰 -- 自己啓発セミナーを考える」(内容紹介のPDF)だ。
28日の午後1時から3時半までの2時間半と時間もたっぷり。
グループ・ワークと自己啓発セミナーは似ているわけだが、意外と正面きって議論されることは少ないので、興味深いかも。
だいたい、実際問題、構成的グループ・エンカウンターの様子を写した写真を見ても、ほとんど自己啓発セミナーと区別がつかなかったりするし。
しかし、なんと言ったらいいだろう。
グループ・ワークというものに、「いいもの」を感じる一方で、どうしても疑問も感じずにはいられない。
敢えて、その疑問だけを書いてみるとこんな感じ。
グループ・ワークというのは、人間的成長を謳っていることが多い。
人間的成長とまではいかなくても、対人関係のスキルの向上とか、対人関係の問題の解決とか、オープンになるとか、自分自身に気づくとか、少なくともそのくらいの効果はふつう主張されている。
ところが、そのグループ・ワークを行っている人たちは、本人たちはすばらしいことをしていると思っているかもしれないが、周囲からは必ずしもそう思われているとは限らない。
これまた、敢えて問題になる場合だけ書いてみると、こんな感じ。
指導者がグル化している、参加者が指導者を崇拝している、排他的だ、○○のグループとは仲が悪い、参加者の家庭問題が悪化している、グループの中で恋愛関係の問題が多い、なんでもかんでも親子関係だ、PTSDだ、アダルトチルドレンだ、ADHDだ、アスペルガーだ、解離だ、人格障害だ、などなど。
場合によっては、既存の社会に異議をとなえるのにとどまらず、違法行為にまで発展してしまい、子どもの教育とか世話までめちゃくちゃになったりすることもある。
こういうのは、コミューンを作っちゃって、外部との壁ができると加速されるかも。
ところが、そういう場合にも、信者さん曰く「先生のセラピーは本物で、深く、受容にとんだ人物です」。
そう、確かに、セラピーのセッションの間は、一流のパフォーマー。
しかし、外部から、その団体の運営や行動、意志決定の方法はどうなのかと考えると、首をかしげてしまうこともあるというわけ。
これらは、本当に人間的に成長したり、対人関係のスキルが向上したり、問題が解決したり、自分に深く気づくのであれば、起こらなくてもいいはずの問題だ。
とすると、謳われている効用というのは、一体何なの?ということにならないだろうか。
しかし、だからと言って、人間関係に関するなにがしかの効用がないのかと言うと、少なくとも主観的には人間関係に何かしらの効用があるような気がする。
どこまでが錯覚なのか。
非常に悩ましい。
岡田斗司夫のプチクリ日記に「デスノート最終回・鎮魂歌」というエントリーがアップされているが、そこには、次のような箇所がある。
「デスノート」のテーマはただひとつ。
「絶対的な権力は、絶対的に腐敗する」という、ただそれだけのことを描き切った作品なのだ。
「永遠」や「絶対」を見つけちゃったと錯覚するとうまくいかないものなのかもしれない。
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